Right to Light

陽ととなり

かぜのね

抱えた言葉を全て吐き出してしまったような夜が終わって私はまたひとり自分と向き合う日を過ごす。誰かといっしょにいた時間の分だけ私は私といなくてはならない。こんなルーティンが始まってしまったのはいつからだろう。思春期と閉塞なモラトリアム、いつの私も自分が正しいと思ったことをやってきたので後悔は無いが別の道もきっとあったのだろうという限りないifを思って吐きそうになる。私はまた、想いは本当なのに、言葉は嘘をついてしまった。自分の嫌いなところ、なににしてもいったん“貯め”が必要なところ。動いた先に得られるものと面倒臭さを秤にかけて後者に傾きがちなところ。もっと本当のことを言えば良かったと後になっていつも思うのだけど、どうしてもそれを言っても何にもならないしきっと説教が始まってしまって萎縮する私が見えるから、君のせいではなく、ただただ私の見栄なのだ。一端の人間ぶって、誰もが必死に生きる中自分だけが苦しいと思ってしまう。それ以外に話すことが他に無いのかと自分で思う。どこまでも、どこまでも。おこがましくても、私が感じる大切な想いが伝わってくれたら良いなと思う。結局今日は自分と話すのに丸1日使ってしまって、大したことしてないのに何故かへこんでしまった。自分の好きなところ、お洒落に酔うこと。最近周りの人がたくさん褒めてくれるから、年甲斐も無く調子に乗ってしまう。自己肯定感が無い訳ではないのだ、と少し安心するの同時にいつまでも経っても自分を解放することを覚えない白白さが鼻につく。

 

誰かといっしょにいた分だけ自分と居なければならないのなら、まだまだ私は、期間どころか世代を経て話すことになるのだろう。楽しそう。20代はずっと同じことを言っていたような気がするけれど、やっぱりいつの私も正しかった。その上に立って眺めた軌跡を、人がなんと言おうと私だけは立派だったと言ってやらなくては苦悩した日々が報われない。生活は続く。けど、やめたくなる瞬間がある。場面がある。時がある。日がある。今日はもうやめてしまいたい。

 

さざめく風の音は扉の開く音。大丈夫だと、朝焼けの空は言ってくれる。