Right to Light

陽ととなり

ライフガードに吹かれて

ライフガードに吹かれてなんだか自分を誇り高く思えた。消せなかった憧れや直視できなかった理想に少しだけ向き合えた気がした。淡い私の思い出は今この瞬間に一縷の大人の優しさになって雨空へと還っていく。人の心のかたちを見たいとすら思えた。それはこれまでの私からは到底出ないような視点だった。人の眩しさを感じることも今日だけは苦しくなかった。それぞれが思い思いの歩を進めていく生活に私も参加出来たような気分だった。私は自分に正直でいたいし刹那の感傷を温かさとして大事にしたい、人に優しくする理由なんて私にはそれだけで十分なのだ。見返りを必ずしも要しない、なんだか少しだけ至高へと近づいた気がする。勇気とは信念で、一歩とは信念を越えること、その一歩が新しい温かさを生み出すように思える。心の奥の奥の方で静かに灯る火、そんなライフガードに敬意を払う。

 

今年も手紙を書くよ。去年みたいになにかものをプレゼントすることは叶わなかったけど、その分前には進めている。きっと。

 

だからいつか私を刺して殺して欲しい。打ち込んだ楔は消えないし消せない。それが祝福やあるいは呪いだったとしても生活の糧にするしかないし生命は続いていく。笑顔でいて欲しい。この世のあらゆる苦しみかや降りかかる火の粉から身を守る盾としていられたら私はそれで満足だから。必要としない助けすら今日だけは越えさせて。書く内容はもう決まっている。日々の苦しさや辛さ、これまでの二転三転、後悔、恥、弱さ、憧れ、恋、情熱、せっつかれるものは多いほど輪郭ははっきりしていく。辛くはあるけれど困りはしない。それってすごく前向きだと思う。悩み続けている間だけは少なくとも歩みは止まっていないのだから。思いは伝播して明日を紡ぐ。人生は繋がっていることを知った。苦労は報われることを信じて生命をするしかない。儚く弱い、でもやりようはある。夢を見る。酷く罵られ嘲笑される夢。自由の代償だと思うことにする。物事は見え方次第らしいので、見たくないものは視界の隅に追いやって、言葉に耳を傾ける価値があるかどうかは私が判断するよ。そうしたら昔よりもっと今よりきっと人を大事に、言葉を丁寧に出来る気がする。自分を見失うからそれがなんだ。揺れても迷っても、そのこと自体に気付ければいい、そこから戻る練習を少しずつしていけばいいだけ。大人なんだから許されるなら大胆にやったっていい。今日の私はそのことを知っている。

天衣無縫

ここ2~3ヶ月の私という人間のつまらなさに辟易としている。刺激を求めては空回りをし徒に人を求めては悪辣な態度を付し自己嫌悪の沼に嵌る。真新しさというものに飢えているのに求める自分に自信が無くて身動きが取れない。それかもう動く体力や気力といった原動力自体が損なわれている気がしてならない。これが人生というものならば、このまま平坦に過ぎていくものであるのならば、このままなにも身動きが取れないのであれば終ぞ消えてしまたい。毎日のように訪れるそういった衝動を抑えながらばらばらに散った心を継ぎ接ぎしてまともなフリをしている(つもりである)。それも段々と疲れてきた。顔は醜く体は汚い。近頃は自らの名前が重い。“そこに存在している”という事実が私を苦しめる。私を私たらしめていたものが少しずつ少しずつ泥のように変容していくのを感じる。右半身が無くなる夢をいつも見る。頭の中で声がする。また逃げるのかと。逃げるつもりは無いけれど無理な日だってある。きっと大丈夫で救えない夜がある。ひたすらにじっと耐えるしかない季節。言葉の切れ味が鈍っていることを殊更に感じる。綴りも紡ぎもどれも決まって自分のものじゃない気がする。心が弱い。誰のためか?いてほしい、いなくなりたい。書き終えて久しいいなくなった時のための文章を書き直したい。その時くらいはせめて自分の言葉で話せたらいいなと思うけれど、きっとダメなんだろうな。今の私は私に伴う全てを赦せない。

 

「私はここからいなくなりたいのです」なんていうどうしようもないことを匿名性を排した個の名を背負って発言していいものかとずっと考えている。発信すること自体で現況が好転するとは到底思えないしむしろ更に言葉に縛られて人格が歪んでいってしまう気がする。かぶりを振る。昨日の記憶すら曖昧にどうやって眠ったかを覚えていない。無気力と無刺激の生活に波は無く、感情はいつも浅瀬で呆けている。

形代流し

〇いろいろと学ぶ。そこから見えてくる自分に漫然と死にたくなる。呆然である。選ばれない苦痛、択の無い虚無感、虚栄、生活が全部どうでも良くなってくる。米、電気、ガソリン、あらゆるものが高い。身動きが取れない。自縛である。自爆である。

 

〇もっと話を聞き出すべきだった。話す気が無かったとしてもきっと心の奥底にあるはずの心象を聞き出すべきだった。不安、抑圧、葛藤、好奇、必ずあるはずだった。話をするべきだった。如月はじめのあの夜に、酔いも食えも出来ない私の役割はただ心身を傾けることだけだったのだ。気付くのはいつも後になってから、そして今後同じ時に同じ後悔を繰り返す。望む事じゃないかもしれないが私は夜に納得していたいのだ。ただその一心だけが私の見せる隠すことの出来ない本心なのだから。

 

〇私はこんな顔だったか?どんどん汚くなっていく。どんどん笑えなくなっている。

 

〇こうして座っている間にも気持ちは巡る。腰掛けている椅子の脚を掴んで液晶を割りたくなってくる。手近にあるカッターで頸動脈を切ってみたくなる。そうして流れた依代に想いを乗せたいけれど、けれどこの世は現実なので何も変わらない。

そして露になる

私は死ぬ。いつも抱いている希死念慮ではなくて、もっと直情的に己にはどうすることもできない喪失を味わって死ぬ。いつになるかはわからないけれどいずれその死がやってくるという確信だけがある。私はいつか死ぬために生き、その死を受け入れるだけの役割を担う。誰のためなのだろう。喪失は人を著しく変えると信じていた時期があった。その変化こそが生活であり彩であり人間性なのだと説いたこともあった。でも今の私はその死がたまらなく怖い。確実にやって来る喪失を妄想しただけで今ここで首を切ったほうが楽なのではと思える。飾る色や続く営みであったとしても夜を跨ぐのはよくなくて、それどころか、言葉にするのも憚られるような生来の意思が影をどんどん深めていく。孤独には勝てない。枯れた声、海鳴り、高架下の呑気、無様だ。わからない、私には人がわからない。けれど、孤独には勝てないからもう四の五の言わずに、何度でも思い知らされようとも筆を取る時なのかもしれない。どっちに進んでも怖いことが解っているのに生というのは不条理で思い通りにいかない。思うにタイミングなのだろう。でもこんな夢も目標も金も地位も愛も無い己のことしか考えていないような男に誰が寄り添ってくれるというのか?やはり愛というものをもう一度践むことが来る死から逃れられる目下の唯一であることは自明なのだ。いくしかない。そしてまた露となって一片の滲みが増えるのだ。染みを増やすことに躍起になっていた方がまだ人間らしかった。私が思う正しい道はどんどん私を導かなくなっている。変えたい。変わりたい。没入するような大変を経て私も君たちと同じになってみたい。それが幸せであります営みであるのだと結論付けたのだから。私はなにも隠したりはしない。ただ、ただ虚無なのだ。生を謳歌する一方でなにかを(これも言葉にすることは憚られる)擦り減らしていっているのだ。厭になる。厭なことばっかりだ。それを思い知るために、そもそも上手くいくことの保証も無いことに活路を見い出して希望を紡ぐ。涙も流れないから花も咲かない、詩も生まれない、ロマンチシズムは実を結ばない。もうダメかもしれない。君になら殺されてもいい、でも君以外にそう思える人がいるとは思えない。偽ることに疲れた。飾ることにも見せることにも疲れた。色も春も失くした人間は一気に衰えていくように思う。愛した私はきっともういない。礼節が人を作り出合いが生活を彩るのだとしたら、この怨嗟は何を火種に燃えていくのだろう。音楽は効かない。映画は観ない。

夢でくらい

遠征に向かうバスがある。私はそれに乗っていて、うだるような陽射しに眼を細めながらも照りつけるグラウンドを観てこれが最期かなどと感傷に浸る。ウェアを着た意中の人が私に向かってゴルフボールを投げてくる。3つ。好意の数である。私はそれを被っていたキャップをグローブ替わりに受けとめながら、私もそうだと普段では出し得ない声量で伝える。キャッチボールとも言えるそのやり取りは数瞬で完了しようとも、これまでの10年を埋め合わせるような密度のある言葉だった。好きだったと。私も好きだったと。じゃあそうしようと。やはりそれは最期のやり取りになった。ゴルフウェアの意中の人は笑顔で消えた。しかし私は悲しくなかった。伝えるということに充足していた。空っぽだった10年に意味が生まれた。それ以上を望むのならば私は自らに立ち向かう勇気が必要だった。時が悲しみを癒すのならば、失った心を埋めるのにはいずれどこかに訪れるやり直しのチャンスを見極め逃さずものにすることが求められる。ソフトボールのユニフォームを着た君がこちらを向くのに気が付いた。私は嬉しかった。

 

私を見て欲しい、それだけは何年経とうと変わらない。前までは必要とされたがっていたけれど、失くした自信に必要とされたところで沿うことはできないから、愛さなくていいから遠くで見ていて欲しい。そして行き着く先を、無事と平穏を祈っていてくれたらなと思う。

 

季節が変わる。環境が変わる。生活が続く。そんな中で変わらないものがあって欲しいと願ってやまない。他人に求めることは烏滸がましいと思うけれど私も最大限の礼節と敬意を持って付き合おう。淹れるココア、個包装のドーナツ、眠剤、指笛、御霊降ろし。見ていて欲しい。変わらない、それだけで私は生活を続けようと思えるから。

焼く身、焦がる身

○今日ほど己の技量を祝福したことはない。そして今日ほど己の道を呪ったこともない。

 

○新卒の時の研修を思い出す。

入った会社を4ヶ月で辞めた - Right to Light

今でも新鮮に思い出す。(いつか絶対に始末をつけるから。)自分はこの場に相応しいのかという疑念、不安、見せつけてやるという意地と矜持、どの感情も正しくて何年経っても私には荷が重く感じる。23の私も今の私も振り返ってみて無理だとも思うことばっかりだ。そういうことを乗り越えていくことが人生ならば私は違う道を模索したい。おぼつかない手で針に糸を通す時に抱く死への仄かな希い、こいつをどうやってやり過ごしたらいいのかいくつになってもわからない。誰もがそうなのか?健やかな心身であれど一時の感情に満足した時私は小さな感情に人生の残りをフルベットして大敗するだろう。少しずつでいいと理解していてもやはり一方で私は矜持を見せてやりたいのだろう。この身にそぐわない大きな性根、それに潰されて終わる人生。あぁ人生、これが人生、私の人生、誰かを愛したい私の自由。ふと思い立って今はどんな様子なのだろうと気にしてみたらいつかの私が全て消していた。二度と会えない人の幸せなんて願ったところで身を焼かれるだけだからもうしない。去っていった者たちから得ようとしてはいけない。私はせっつかれるような衝動だけに恋焦がれて生きるのだ。好きな私とお好きな時に。手間暇かけようが予期できることは起こり得ず予想外のことが最悪なタイミングで口を開けて待っている。全てはしあわせに暮らす為。心の平穏と衝動に焦がれる身。愛して生きましょう。

 

○やっぱり昨日が話どきだったように思う。あんなにも月が大きくて近くて煌めいて、今日になったらもう遠い。

アネモネ

またあたしひとりいくところもないわ

 

焦った方がいいのだろうか?友人が着々とライフステージに彩を加えているのを見るとどうしても心がさざめく。焦ったところで変えられなかったのが今であることを忘れてからだろうに、酒の肴も無くなったこの頃に話題の一つでも咲かせられるのであれば徒花でもいいんじゃあないかと思う。揺らぐ心には世界は寛容過ぎて性というものは不潔過ぎると思ってしまう。いつ砕かれるかも判らない心をして人と触れ合ってもいいのだろうかという根源的な不信と恐怖はいまだに拭えないので私はもうそういう風に仕上がっているのだろう。くだらない人間性、つまらない人格、枚挙に暇が無い程の動かない訳を生み出しては霧散しあぁまたなにも生み出せなかったと嘆くのだ。本当にくだらないし気持ち悪い。

 

憧れは消せない故に追い求めては及ばず堕ちる。密かに心ながら育んでいた心はもう叶うことはないと悟った時に憧れはどう姿を変えるのだろう。帰るのが嫌だと何度も言っているのならいっしょに連れ帰ればいいだろうと、あまりにもざっくばらんに斬り捨てられた私の人格は道徳性の呵責で死ぬことになるだろうと言い返した。突き詰めれば人はどこまで行ってもひとりなのだ。拍が合わないのも頷ける。余裕なんてない、焦りしかない、そうかこれが後悔の味か。自分が悪い方へ奇特ということを殊更に認識した時に日常の出会い全てに合点がいく。だって動機が不純なんだもの、そのものではなくて逃避を目的にしているのが透けて見えているのだろう。瞳に映っているのが自分ではないと知った時の感情はよくわかる。

 

愛してる、でも夜明けには、いない

 

だからやっぱり動くべきじゃない。少なくとも気持ちが落ち着くまでは、マルチタスクがこなせないなんてことはこれまでの生活から明らかで無闇に人に迷惑をかけるべきじゃない。悪い方に奇特というのは本当に的を射ていると思うよ。どの環境でも言われ煙たがられたこれまでと現況を見れば原因は明らかだ。一生叶うことのない憧れ、叶えるには最早生まれ直し積み上げ直すことすら求められる生きた証。自分の幼さを悔い背負った呪いを帯び続ける。全ては導きのままに出会うのだから、正しさの道は間違っちゃいない、明るく、登りゆく朝日のように照らしてくれると信じるしかない。そういう呪い。

 

愛しても思い知らされる、一生、夢見るだけさ、あの人、あたしをいらない、しあわせの世界に縁などない