Right to Light

陽ととなり

月曜日、憂鬱というより情緒が不安定だ。朝はしっかり起きれてるのにやる気は出ない。でも顔は気持ち悪いから洗って身嗜みは整えたい。仕事は溜まっているはずなのに駆られるものが無くてなんだか雲を追いかけるような途方の無さを思わせる。と思えば夕方になればようやくギアが上がってきてやる気に満ちて満足気に帰路につく。なんなんだ。

 

先週末職場の人とご飯に行って案の定愚痴大会になったのだけど大変いたたまれなかった。私は愚痴が言えない。言っても元凶が変わることはまず無いし却って鬱屈とするので言いたくないのだ。不平不満は溢れる程あるけれどそれを労して潰す程の気概を持ち合わせていない自分を見るのが嫌なのだ。低い給与、満たされない承認、不明瞭な基準、杜撰な進捗管理、挙げればきりがない。今の職場で働きはじめて5年目になるけど私はマジで未だに自分は出来ないやつだと思ってるので愚痴より先にまず経験を積まねばと考えているのである。いつになったら下積みが終わるのだろう。いつになったら自分で自分を褒めてあげられるようになるのだろう。こういう話を人にすると自分で気付かないだけでもう十分頑張っているんだよと背中をさすって貰えることがあるけれど、最早私はそれすら自分で実感することが出来ない。何度も何度も同じことを何年も言い続けているが、仮に私が頑張っているとしたら、毎日毎朝こんなに惨めな気持ちになるはずがないのだ。結局のところ、自分を認めてくれる誰かがいる人の言葉は私には響かないのだろう。心配と励ましを蔑ろにする愚かさ、そしてこの傲慢さ故にどこまでいっても私はひとりでしかいられないのだと思ってしまった。ひとりは嫌なのに。自分がどんどん嫌いな人間になっていく。

 

底の抜けた空っぽの心に溜まるものは無い。一時の潤いは染み込まずに時が経てば流れていくだけでいつもどうして渇いている。下卑た自嘲が空虚な心によく響くだけだ。運に殺され雨に殺され過去に殺され、今を作ろうにも足掻く足場も不安定で不確かで立ち上がれない。寄る辺もない。

 

この数ヶ月、振り返れば自分のことしか考えられなかった。人を見て認め褒め愛することをすっかり忘れていたように思う。だからせめて明日からでも、少しでも博愛の心を持てるように暮らしていきたい。私は嫉妬と憎しみに塗れているけれど、だとしても人を見て愛することが出来る人間なのだ。その両立を私らしさとしたらいいんじゃない、そういう風に捉えて過ごせば渇いた心にも違った何かが芽生えるだろうか。

 

今日もちゃんと働いたしご飯も作ったし銀行にも行けた。この世は地獄かもしれないがその日生きることができたらそれだけで勝者になれるのかもしれない。私は惨めで孤独で傲慢だけど、それと同等に愛と感傷を持っている。