Right to Light

陽ととなり

救いの無い人ね

逃げ道を用意して生きてきた。大学4年の9月まで内定が無かった時(思い出しても苦々しい)には卒業延期の書類をとりあえず一式揃えたり専門学校の書類を取り寄せてみたり、それまで1本しかないと思っていた正道に自ら分岐を用意することで少しばかり心に余裕が生まれた。高校入試だって大学入試だって滑り止めがあったし思えば夜行く店が満席だった時に備えて他の店のあたりをつけておくなんてことも全部今の自分を落ち着かせて未来を担保するための手段だ。孤独との付き合い方をアップデートしていく必要があるとかなり前にどこかで書いたような気がするが果たして今の私はあの頃から何か変えてひとりになれているのだろうか。あるいは、変えた結果気に入らず、元に帰ってきているのだろうか。なんにせよ今の孤独との付き合い方は(正しいかどうかは別として)概ね役割を果たしている。このブログはその一端、著しく直感的に声を震わせて今ある自分を残そうと躍起になっている。満足しているとは言い難いが必要を満たしている気がして良い。呼ばなくとも顔を覗かせる傲慢な自分もその時ばかりはどこか許されるような気がする。思ったことはその日のうちに。日を跨ぐとその日の自分はどこかへ行ってしまうので。

 

最近何か行動をするにはその瞬間しかないんだなと思いはじめた。行動力が無い私はそれくらいの意識がきっとちょうどいいのだ。あくまで個人で完結する範囲の行いについてだけど。やる理由なんて後からどうとでもなるらしい。今こうして書いていることも違和感がすごい。自分が自分じゃない状態で自分を残そうとしている。一人称もばらばらで気持ちが悪い。他人の目に映る自分を見ないと自分がわからないというのに私は孤独故にそれが叶わない、なのにそうして孤独を埋めようとしている。このジレンマ。もはやその背反すらも人の心として愛そうと思い始めている。そうして少しづつでも矛盾を受け入れていかないと私は誰も愛せないだろうから。納得だけが人生に必要だ。逃げ道もジレンマも不明瞭な自分も納得を得られれば肯定される。この意味不明な文章もただ私がそうしたい、そうしなければならない意志の一点で肯定される。そういうことにしておいて。

 

水族館に行きたい。ずっと言ってる。

思い出は消せないし塗り潰すことも出来ないらしくて、結局自分は変われない人間だということに辟易している。でもそれもいいじゃん。理性を剥がした私の人格もまた秋の淀み、納得するしかない。この瞬間しかない。