Right to Light

陽ととなり

10月の木漏れ日

自分がわからなくなりました。鏡に映った顔や発した言葉が自分のものかわからなくなりました。今これを書いていることも残していくことも正しいことなのか、本当にやりたいことなのかわかりません。落ち込んでる訳じゃなくただただ虚無感に襲われている。23の時に罹った鬱と克服出来ない適応障害が私を取り囲んで耳元でお前はダメなやつなんだと囁いている。キャリアや自信を差し出してまで守った己の正しさ、礼儀、知識、節操、責任、節度或いは欲望が、今になって何も残さず何ももたらさなかった事実を目の当たりにした瞬間がありました。人と人との接し合い、理解し合い、互いの正しさを譲り譲られ育んでいくはずのものを、私はいつまでも頑固で不器用で愚かに拘っていたのだと思います。あの時の鬱が私の中から自信というものを根こそぎ奪い去って、今の私という何をするにしてもどうしようもなく卑屈な自分を作り上げたのだと思います。もしかしたら、今までの失敗をただただその所為にしたいだけなのかもしれません。生きる程の活力も死ぬ程の絶望もない中途半端な自分。私は人に頼る資格も助けられる覚悟も持ち合わせていなかったんだなと何度目かわからない落胆を感じています。人との触れ合いが怖いのです。相談も遊びも一時の私を救うでしょうが、その後に待ち受ける再びの孤独が今は怖い。そして誰であろうと疑念を持った目で見てしまう自分がいます。これが人間不信というものなのでしょうか?そこかしこから当たり前に聞こえてくる未来の話が鬱陶しくて仕方ありません。とにかく疲れました。人を知ることに、自分を伝えることに、自分が敷く正しさのレールの先に幸福が見えないことに、その正しさを変えることに、とにかく疲れました。幸福の為なら自分を変えられると思っていました。でも私は結局この有様で、望む普通の姿にはもうなれないんだと感じています。人の役に立つことも利己的になりきることも出来ない、私はここでも中途半端なのです。私が努力だと思ってしていたことは努力ではなく、私が変化だと思っていたことはそうではなかった。これから先この事実を抱えたまま生きるのかという重苦しさだけが眼前にあります。

 

思いついたことは日を跨がずにその日のうちに記して置いた方が気持ちが落ち着くのでとても良いですね。やはり残した方が何かをした気になれる。この苦しみから解放される術を私は知っているのです。だけど、それをするには私は自分の正しさから逸れなくてはならないみたい。それも少しではなく、生き方を変える程に大きく強く。一時ばかり大きく強く振舞ってはみたけれどその時の私は自分で無理をしていることがありありと解って気持ちが悪くなりました。幸福は、私が求める幸福はこんなものなのかと気持ちが悪くなりました。万策尽きたとは言えませんが、万策を尽くしても自分は幸福になり得ないのでは思ってしまいました。空っぽです。それならまだ憎しみに駆られて復讐を原動力に幸福を目指して生を繋いでいた時の方がよっぽど人間味があったのに。

 

1日の中で自分を赦せる時間がどんどん少なくなっていく。明日はせめて明るい話ができたらいいなと思います。でも、昨日も一昨日も同じことを思っていたのです。