Right to Light

陽ととなり

じゃあゆくゆくはそういう終わり方で

定期的に祖父の家に顔を見せに行くのだけど、最近「嫁を早く見つけんとなぁ!わはは!」と言われる。正直しんどい。ごめんねじいちゃん。私には到底届かない願いかもしれない。

 

“希望を持つ“ということは生きることにおいて無意識にあるセーフティのようなもので、例えば現状に不満があったとしても希望があればその不満を解消出来るかもしれない、というように脱却の余地があることそれ自体が多少なりとも希望になり得る。逆に言えばその余地が無い状態はまさに“いきづまっている”と言える。漢字は時々で適当なものを当てはめたい。行き詰まっている。息詰まっている。生き詰まっている。とにかく自己の成長というものに限界を感じて、最早何をするにしてもする前から徒労というものを考えてしまっているのが今の私である。なんだか文字の書き方もおかしい気がする。最近人にとやかく言われることが多くて心労が酷い。みんながみんな描いた人生をおくれると思うなよ。さぞ順風満帆でしあわせなことだろうよ。

 

きっと私はもういろいろなものを自分勝手に捨ててここまで来てしまっているのかもしれない。青春、仕事、プライド、友情、恋愛、ロマン、哲学、どれもこれも意図した訳ではなくても、時々の判断の結果今手元にあるものはどれも確証が持てなくて不安な気持ちがいつも胸の底に渦巻いている。私の良さは決して自分では理解出来なくて悪いことばかりが目につく。考えるのをやめたくて仕事から帰れば飯と酒を煽り余計な思考を排除して眠りにつく。いっそこのまま、アルコールで麻痺した思考に酔いながら、楽観で甘美な妄想に耽りながら目を閉じて起きることがなければいいのにと思う。誰もが己の正しさを振りかざす一方で、私にはそれがどうしてそんなに許される行いであるのかがまったくわからない。どうして自分の正しさが一方的に許されるつもりでいるのか、そういう風に見えて不器用に悩む自分がとてつもなく矮小で取るに足らない、振りかざす自信も持てない甘ちゃんだと思ってしまう。何も成せないものは何もなし得ないから何も成せないのだ。卵でも鶏でもどっちが先だろうとどうでもいい。今この心境こそが憎くて憎くて悶えそうになる。

 

愚痴を言っても楽になったことなんてない。現状を認識して不安は増幅、気が滅入るだけだ。不安定がいちばんどうしようもないので、ある程度の指針を固めて生きていきたい。そこそこに自分の限界に諦めを見出したら、そこであらゆる物事からいなくなってしまおうか。ベクトルさえ定まればとりあえずの道標は出来る。希望は前を向かせて歩ませくれるかもしれないがその先の保証をしない。

 

失くしたものやできなかったことを考えると今に目眩がする。もう目を開けていることすらしんどくて、何を見て生きたらいいんだろうって考える。人を見ても自分には出せない答えばかりで、自分をみても答えを導ける材料がなくて、行先がない。