Right to Light

陽ととなり

属隷の君

説教じみた言葉はもううんざり。私もついに反抗期、いや離反期に陥ったのかもしれない。絶対的な正しさというものがある。私には、個人にはどうすることも出来ない正しさというものが。そしてそれを振るうことが許されている者がいる。私はどこにいってもそういう人とは相容れないらしい。会話をすればするだけ、言葉を交わせば交わすだけどんどん態度が引いてくる。私の理性がそうさせているのではなくて、もう本能のレベルで、ただひたすらに(あぁわかり合えない相容れない)と思ってしまうのだ。私はずっと認めて貰いたがっている。自分の行動や態度や配慮や努力や許容を、認識し言葉にして自分に伝えて欲しいと願っている。交友に於いて個人の範囲を超えたある種我儘な物言いであることはこの際許して欲しい。だって私にはその自負がある。珍しくもいみじく、皮肉なものだ、己を取り戻そうともがき躍起に動いてきた結果が他人の拒絶なのだから。私は自分がかけがえのない存在である自負がある。他の人には務まらない大きな枠組みであり歯車であり油である自負がある。だからこそなのだ。この我儘は、言い方を変えれば願望は、達成されて然り、人として望みを抱くなら真っ当な言い分であると誰かに背を押してもらいたい。詰められる境遇に疲れた。そう、疲れたのだ。心身共に、態度や言葉を作る関係構築の最低ラインに立ってなお、私は疲れてしまった。足るを知れという言葉があるが、物事や人生にはやはり潮時というものがある。私が今こうしてこの場に立っているのは、決してこの関係のためでは無い。在りし日の、過ぎ去った夏に私がなし得なかった努力を晴らそうとしているのみだ。その努力に私自身が燃え尽きた時、きっときっと、人生はまた大きく動く。今度は自ら選択をして。

 

と、愚痴を言ってはみたものの、相変わらず何かをもたらす訳じゃない。相変わらず朝は重いし、相変わらず気分は沈む。効くか効かぬか薬もプラシーボで、行く末は相変わらず暗い。不意に首を括りたくなっては家族の顔を思い出し衝動に留まる。(こういうことも医者に言うべきなのだろうか?)本当にいったいぜんたいどうなっていくのだろう。疲れた。海へ行きたい。