Right to Light

陽ととなり

あなたも甘く頑固だから

人に言葉を投げかける(必要がある)度に私は自分を覗き込んで勝手に死にたくなる。それは投げかけた言葉が自分に刺さりはしないかと怯えているのかもしれないし半ばそれを自覚しつつ棚に上げる自分を支えることがしんどいからかもしれない。私は常々投げかけた言葉が見えてくる相手の反応や態度、加えて返ってきた言葉から予測される自分の輪郭を見たいと思って生きている。言葉はエコーロケーションで、私達はイルカでありたいのだ。言葉を投げかけ傷付き確かめ合い、そうすることで得られる信頼や機微を人として捉え世界を積み上げていきたいのだ。けれどもそう願う一方で、私はイルカでいるにはかなりナイーブが過ぎる。ばらばらになった正しさを精一杯かき集め繋ぎ合わせた私の価値観はやはりどこかズレているらしい。「何からズレているのか?」という疑問は機能しない。人の世界では正中線にかかる価値観だけが「一般的」という裏立てを得て支持や共感を集める。その「ズレ」を殊更に認識した時に私の精一杯の正しさは瓦解し意識と言葉から力が抜けていくのを感じる。私はイルカでいるにはナイーブが過ぎる。うーん、だから私は生き辛いのか。

 

『いざ言葉を、さぁさぁ』と発破をかけられた時の私はこころなしか意気揚々としていると思う。それは日がなこういうことを考えて生きているのはこの時の為か、と思っているから。調子に乗っていると思う。だからこそ、良くも悪くも人柄が出るし、だからこそ、ズレる。「言いたいことを言われた」という建前を名分に自分の言いたいことを言ってしまう。人に優しくないと思う。

 

優しくする必要があるのか?とも最近思う。誰だってかけて欲しい言葉を言って欲しいものだ。それを理解しているからこそ難しい。私の選ぶ言葉とあなたのかけて欲しい言葉がいつだって一致すればいいのだが、だとしたらその会話に何か実りはあるのだろうかと思う。馴れ合いも悪くは無いがそれだけじゃお腹が空くわ。ぶつかり合うことでしか生まれない痛みがあるしその痛みから得られる学びがある、と心に留めておきたい。個々には個々の哲学と地獄があることに加えて。

 

あなたはきっと私と似ていて、甘く偏に頑固なのかもしれない。一方で生まれの違い、育ちの違い、学力やそこから得た経験、違うことが当然あって、そこを受け入れろとは言わないが、そこにもやはり個々の哲学と地獄があることを忘れないで欲しい。私はあなたに嫉妬しているのかもしれない。似ていても、甘いあなたを妬んでいるのかもしれない。なんだかんだ甘いまま生きていけてしまうあなたが羨ましいのかもしれない。支えている手を顧みず自分を棚に上げれば、違うが故に、あなたは救われて私は死ぬんだから。あなたに投げかけた言葉は輪郭を作らずに波紋は消えて、私の正しさはまたばらばらになるんだから。

 

私にも限界があるんだなぁと思った。限界があって、だから言葉を使ってなんとかそこを越えようとしている気がする。褒めだったり驚きだったり愛だったり、私だってそれらを語ったり語る夜を自分で生み出したりしたいのだ。