Right to Light

陽ととなり

『ただ受け入れて欲しい“だけ“』という不遜な欲望

6月に入って雨が降ると梅雨入りかぁと少し気が滅入る。蒸し暑い梅雨は嫌いだけど今ぐらいの少し肌寒さを残すような雨はむしろ好きだ。晴れと雨、春と夏、グラデーションがかった白とグレーの空を見るとなんだか特別な気がしてわくわくする。

 

ここしばらく週末はせわしなくどこかに出かけていた。高校の友達と飲みに行ったり競馬に行ったり、出かけるというのは良い。それが友達と共にというのも良い。誰かといっしょにいるということはそれ自体が喜ばしいことなのだ。

 

マッチングアプリの方はというと、割と散々だった。社外研修のアイスブレイクか?というようなカフェタイムを過ごしたりまったく盛り上がらない電話の時間を過ごしたり(これは私の度量不足もあるが)、怪しい副業を勧められたりデート前日に会えないブロック決められたり…まるでうまくいっていない。特にデート前ブロックさんとはかなり良い感じに感性が合っている気がしていたのでほとほと落ち込んだ。何が悪いかもわからず急に手を切られると、次会う時に考えていた会話も持っていた感情も用意していた言葉も全て行き場を失くすので心臓に悪い。今まで何度か一方的なブロックを味わってはいるがこればっかりは慣れることはないと思う。寂しい。そして今度ご飯に行く相手とは今のところ何の脈も感じていない。寂しい。

 

私の寂しさは人恋しさである。その状態を良しとしないまま気分を変えようと外に出ると目に入るカップルに憎しみを覚えてしまう。私はすぐ憎しみに染まるということをよく言うがこれはもちろん嫉妬だ。寂しさから来る嫉妬なのだ。ひとりでは如何ともし難い嫉妬なのだ。憎い。最近ではこの寂しいとか憎いとか言うことすらはばかられる気がしてならない。口にしたが最後、それを受けた人に私がそういう人だと決定づけられるような気がして、それで人が離れていってしまうのではないかと怖くなる。感情に行き場がなくなっている気がする。今までは好きも嫌いもあけすけに言葉にしていたけれど、どうやら普通の人はそんなに人の目につくところで言葉を発しないらしい。思考も感情も考えも、口にすればしただけ私は「お前は変わったやつだ」と言われてきた。私としては至って普通なことなのに、発しないと伝わらないから発しているだけ、あるいは抱えられないから発しているだけ、いずれも必要だからしていることなのにそれは変に映るんだって、その映り方で人が私から離れているのだとしたら?抱えることも発することも縛られて手詰まりなのが現況だ。しんどい。

 

私は感情に塗れている。理性的で落ち着いてると周りの人からよく言われるが、深く話したことがある人なら私が生来から刹那の感情で言葉を発してしまうことを知っていると思う。どう思われても構わないと言葉を発して生きるのか、それともひとりを恐れて黙って生きるのか、どっちに生きるのが生きやすいのだろう。私にはわからなくなってしまった。私はただ受け入れて欲しいだけ。この“だけ“がどれ程不遜で過剰な欲望なのか、最近身に染みて理解するようになってきた。私がどれだけ過ちから人を許容し受け入れてきても、人が私を受け入れてくれるとは限らない。私は私みたいな人がいたら(面白っ)と思うけどそうじゃなく鬱陶しがる人もいる。たった1人でも今のあなたそのままを受け入れて許してくれる人がいる、それだけで救われる心の部分がある。私が自らで掴もうと求めてやまないのはその救いなのだけど、それも上手くいっていない。

 

私は自分を救って生きられるのだろうか。幸いなことに現状仕事と家の生活はうまくいっている。あとは人間、殊更に恋愛、ひいては人生。納得が必要だ。