Right to Light

陽ととなり

うつりにけりな

ひとりで家にいることの寂しさを痛感している。朝目が覚めた時、家に帰った時、食事をする時、ベッドに横になった時、緊張が解けて無防備な瞬間程寂しさは心に深く入り込んでくる。インスタを眺めていたら「ひとり暮らしの寂しさ解消」みたいな事が流れてきたので読んでみたら、「恋人に電話する」とか書いてあってスマホ割りそうになった。職場でよかったな。

 

とにかく声を発することが無くなった。今が気落ちしている時期というのもあるけれど、意識して独り言を言わないと職場以外で話すことが本当に無くなった。せいぜい寝起きと食後の呻き声くらいだ。上がる気持ちも昂る感情も無くなった。かろうじで先々に楽しみを作ってそれを目標にただ生きている。生きていると言っていいのかも怪しい。他人の中に存在することで自分が成立する社会において、今の私は生きているか怪しい。死んでいないだけで、私は社会のどこにも存在していないのではないか。孤独は不安を引き連れるのであまり良くない。生きることにおいて不安定な状態がいちばん良くない。行動も気持ちも指針も信頼も、不安定は人を脆くする。ある程度の熟慮の結果なら迷いがあったとしてもさっさとこれ!と決めてしまった方が気持ちに片が付いて生きやすいなと最近改めて思った。なのでGWは植物園に行こうと思う。最近私の中で植物が熱い。

 

迷いがあるから弱くなるなら、もうそれほどいろんなことで自分を責めなくてもいいのかなと思った。感性も価値観も言葉も合わない人とは合わないのだ。大事だと思う人とそれらが合わないのは確かにとても悲しい事実だけど、合わせようとする自分に力量がないからって、それはひとつのあるべき形なんじゃないかって、そう思いはじめた。そう思った一瞬だけ、肩の荷が降りたような、心のわだかまりが解けたような気がしたけれど、それが生きやすさの糸口なのだろうか。今はもうその感覚はない。

 

過去犯した行動が、その責任として今を蝕むのなら私はどうするだろう。その時にはその時の事情があったんだよって、私には私なりの考えがあって、それはあなたも同じように思うでしょう?と口を回したりするのだろうか。それすらもう面倒に、過去は過去に置き去りにして今を生きる私に注力するのだろうか。自分の人間性がこの歳になって垣間見えてきた。情緒不安定で気ままで心に流される、憧れ描いた大人像とはかけ離れて生きている。ごめんね私。泣きたいのに涙が出ない。家から出ても、やはり私は声を出さない方がいいのかもしれない。