Right to Light

陽ととなり

じゃあ私の話は誰がきいてくれるの?

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金曜から有給使って花を見に行ってきました。花の名前はちっとも覚えられないけど自然の形にはやはり惹かれるものがあって、生物として特別さを感じた。ほぼ1日歩き通しだったので足首が痛むがそれでも気分が少しは変わったような変わらないような、「アクションをした」ということを自分で褒めたい。

 

いつもいつも私は人の話を聞きたがっているみたいで、それは最近人に飢え会話に飢えているからだろうがなんとなしに聞ける会話からその人のことを知ることに楽しさを見出すようになってきた。趣味、嗜好、幸福、嫌いなもの、愚痴…なんでもござれと宣うのは簡単で私はそこから発話を求めるようになっているから質が悪い。悪癖ともいえるこれをなんとか抑えようと努めてはいるがそれはなんの因果か、抑えようとすればする程無駄に言葉を着飾って人によってはそれが小賢しく見えるらしく、何度同じ終着点に至ったことか、「それだけの労力を割く必要がわからない」と終わらせられるのだ。そう思われたことを申し訳なく思うし、悲しく思う。至らない自分が悔しい。

 

社交辞令的に合わせる会話がとことんつまらなく感じるようになってしまった。だって、行き着く先が見えないから。それは本来の私じゃないから。会話の目的を互いを知ることに置く以上私は私でいるしかないのに、私でいると人は離れていく。結局誰も私のことなんて好きじゃなくて、社交辞令とその場の雰囲気だけで良くしてくれてるだけで、それに甘えて心を開いて人を好きになった私が世間知らずなだけだと自分を恥じることになる。その人のことを知れないなら私は誰と話していたのか?私の言葉はどこへ言ってしまったのか?こういう時でさえ視点が自分中心にしかならないのがまた情けない。人のことを考えるということがどうして出来ないのだろう?会話の中での楽しさも、それはあなたに合わせてただけよと言われると土台がすべてひっくり返されたようなどうしようもなさと虚無を感じる。頭から離れないその一言が信頼を揺さぶって、私はそもそも誰も信用なんて出来ない人間なんじゃないかって、名分も個も失くした今はしがみつくものがない。

 

もう人がわからなくなってきた。考えても答えがないことを考えているから疲れるのは当たり前なのだけど、そこで考えを止められるほど私は器用じゃないし1人でいる以上気持ちは無限に内に、人に、思いに、過去に、後悔に向かう。生きづらい。人の中で私は生きづらい。声にならない言葉が多過ぎる。及ばない自分が多過ぎる。私はやっぱり壊れていてもう治ることなんてないのかもって、生のあらゆるポイントでそう感じる。どうやったら自分を救えるのかわからない。昔はその指針があったはずなのに、それが自信だったのに、私には自分を含めて人がわからない。わかろうとする姿勢すら及ばずに。及ぶとか至らないとか、自分を買いかぶり過ぎなことも気付いているけど、今ですら言葉に出来ない私がいるのに、じゃあ私の話は誰がきいてくれるの?