Right to Light

陽ととなり

嘘吐きどもが夢の跡

前回から半年以上空いてしまった。本当は8月にも書こうと思っていたのだけど、例えば文字に起こせる程の雑感ではなかったり、鬱屈が極まっていざと思えば熱いシャワーで全てを忘れたり、車の中でカラオケしてざまぁみろ世界と詰ったり、そんな年の瀬までの揺れ動きを、微かに楽しんでいたように思う。じゃあ何故今なんだと言えば、それもやっぱり大きな理由がある訳でもない。だってもう自分が思うことは過去に既に書かれていて、それを再び遺すのも変わり映えのない自分の感情が嫌になるし、変える事の出来ない己の不出来をただ突きつけられるだけだったから。未熟さをただ噛み締めるだけの時間はとにかく虚無だった。自分の精神の健康を第一と考えた時、私は積極的な交友を断ち人と比べ羨むことをしないように注力する生活に嵌っていった。成すことは無し産み出すものも無し、見慣れた部屋を壊したくなる衝動と生き方を悔い喉を掻っ切りたくなる情動を抑え仕事に励む。繁忙期に差し掛かっていたのは都合が良かったかもしれない。仕事の中では私が私の技量を認めていなくてもとにかく役割を遂行すればそれだけで有難く思われたから。そんな虚ろな実感でも自分が好きな分野で人の役に立てていると思えたので、そもそもこの場で鬱屈を残そうと余り思えなかったのもまた良かった。

 

ここまで書いてみてもどこか的を射ないというか、本心を隠すような素振りが感じられる。最早自分の感情すらわからなくなっているのではとも思うが、胸のモヤモヤは確かに鬱陶しく在るので、やっぱり情緒がバグったままなのねと何度目かもわからない夜に時間を費やす。だって遺したって明日から生きる自信を私が少しでも持てるとは限らないし、嫌な奴が態度を改めて私と釣り合いやすくなる訳でもない。そう考えてしまったが最後、私の言葉からは説得力が失われて、ただただ思うだけで伝えられないもどかしさを味わう人形。少しでも発散出来るものがあれば今晩気持ち良く眠りにつくことが出来るのに。

 

だれもそれも葛藤と苦悩を抱えて生きているのなら、そこに私が加わることになんの意味がある。だれもそれも葛藤と苦悩を隠して生きているのだとしたら、それは私への嘘吐きなのではないか。私は悩みながら生きている。それを悟られないように。誰もがそうしてる普通であるように。だから私に同情なんて必要ない。今を憐れむくらいなら楽しかった昔を思い出させてくれるだけでいい。気持ちはわかるよとか私にも悩みがあるのよなんて言葉は私を救わないのです。私が直接的な現状からの救いを望んでいる限り、私の悩みは私だけのものでそこに真の理解なんて無いのです。だから、私に嘘吐きだなんて思わせないで。ただ待っていて。