Right to Light

陽ととなり

抱き締めたい愛されたい

土曜日に友達と釣りに行った。結局1匹も釣れずじまいだったが竿の投げが上達したのとその後のカラオケでテンションぶち抜いたので良かった。その日は春から一転真夏日近くまで気温が上がった日だったので、家に帰ると顔、首、腕が真っ赤に日焼けしていた。3日経った今でもヒリヒリしているし今日職場で全員にイジられた。美味しい。

 

春は苦手である、ということを前にも書いたかもしれない。空気が温くなるし着る服に迷うし出会いと別れは避けようもなく降りかかる。そういう生活の不調がまた感覚を鈍くして、あらゆる足取りを重くする。重くなった足を視線を落として見てみるとなんとも不格好で、一体自分はこの足でどこまで歩いていけるのだと自嘲が積み重なるのが私の春の日々だ。仕事にせよプライベートにせよ、予感はあれど何も生まれず、生み出そうと躍起になればなるほど空回って人を振り回し自己嫌悪に陥るのが私の春なのだ。どうしてこうなった。人の幸せを素直に喜び別れに強くある人間になりたかった。

 

仕事をしながら20℃を超えた職場の温度計を眺めていると、ああまたクソッタレの春がやってきやがったと思わずにはいられない。ヒリつく腕に気をつかっても襟付きのシャツを着てきたせいで首が擦れて痛い。ヒリつきはイラつきを呼んで1日集中できなかった。集中できなかったので集中せず働いていたのだが、唐突に思い出したのは行きたい居酒屋があるということだった。ささみの梅紫蘇フライが出るお店で、シードルをボトルで出すお店。行く計画はあったのに最近ぽしゃったお店。そうだそこにいこう。自分で作らない美味しい料理、美味しい酒、そして友達、会話、愚痴、思い出…飲み会自体が久しぶりじゃないか。やろうやろう、声をかけようそうしよう。

 

というタイミングで思い立った。私は最近あった別れによって人に飢えているだけなのだ。これもきっと春のせい。料理も酒も会話も全ては口実、ただただ自分が寂しいから人を集めようとしているだけだということに気付いた。こういう衝では何をやっても上手くいかないということを私は知っている。日程の調整は利かず己の思いばかりが先行し不機嫌になって自己否定に走るのが目に見えた。私も少しは成長しているらしい。その気付きを得た瞬間に全てを諦めた。飲みの誘いは止めて仕事帰りに行くつもりだった銀行も無しにし勢いの外食も取りやめた。どうせ全てうまくいかないから。流れが落ち目の時は無闇に声を上げない方がいいのだ。私は知っている。

 

最近なんだか全てがどうでもよくなる瞬間が増えた。努力は報われないし人は変わらないし恋は実らないし気持ちには寄り添えない。なんの為に生きているのかわからなくなる。ある程度の物事を知ったら適切なタイミングで死ねないものかと漠然と考えてみたが、先のことだって、考えても今を生き抜くのに精一杯でそれ以上のモチベーションは高まらないし高まる要素もない。人生は行き詰まっているのだ。運命があればいずれまた引き合うものだと思うことでなんとか生にしがみついている。

 

帰って酒を飲んで寝るつもりだったがそれも止めた。ブログを書こうと思っていたので飲むと絶対にまあいっかとなってしまうから。いつからこんなに人と酒が好きになってしまったのだろう。ヒリつく腕は楽しんだ土曜の余韻でもある。知らず知らずの内に赤みは引いて日に焼けたことなど忘れるだろう。今は人生の負の流れ。だから春を言い訳にして、なんとかやり過ごそうとしている。