Right to Light

陽ととなり

私の世界が変わる時

「自分が正しいと思うことをしなさいね」

 

幼い頃から母はそう言って私を育てた。学校という組織にいる間は校則を守ること=正しいとされていたので、特に意識しなくても私は正しく生きてこられたし、そのお陰か呪いか知らず「真面目だねぇ」とどのコミュニティでも言われてきた。意識して真面目をしている訳ではないので、その「真面目だねぇ」は私の本来の姿勢をまるっきり無視しているような気がして気持ちが悪かった。学校という枠がなくなって正しさが明示されない社会に出てからは、何が正しいか、何を正しさとするかを自分で考えなくてはいけなくなった。それからというもの、目に見える失敗は全て踏んできたように思う。仕事、人間関係、恋愛…正しさを誤り失敗しては傷付き反省し学びまた正しさを知る。その繰り返し。母は真面目な人間ではないと子供ながらに感じていたが、一方で母は義理堅く情に厚かった。意志や感情の所在をはっきりさせる人だった。そういう母を面倒に思う時期もあったが、こうして大人になった今そのことを振り返ると、それは母なりの正しい人としての在り方だったように思えて、私もそうなりたいと思った。正しさが曖昧な中では母のそういう在り方を手本にしようと、生活の中で知らず知らずの内に考えがまとまっていったのである。

 

という前置きが長くなってしまったが、何があったかというとマッチングアプリの人にさよならブロックされました。今。辛い。これはその吐露であり昇華である。いつものことだね。

 

映画、公園、花見とデートを経てさぁ告白しようかと思っていた矢先だったので面食らっている。突然態度が素っ気なくなったのはやはり予兆だったのか、「まぁそういう日もあるわいな」と流していたのだが会うと普通、LINEは素っ気ないみたいな状況が続いたので、仕事か体調の何かしらの心配で「何かあった?」と聞いたのがまずかったらしい。「何も無いが、まず自分に原因があるかを考えずにこっちに原因があると決めつけていきなり何があったかを聞いてくる姿勢が気に入らない(要約)」のだそう。なるほどなぁ。そういう視点は持ち得てなかったな、という発見を今噛み締めている。

 

私の心配は正しかったのだろうか。気遣いのつもりで送った文章はその人にとっては違ったようで、言葉は受け取り手次第なんだなぁという再認識をまざまざと突きつけられている。私は昔から人に対していろいろ求め過ぎる部分があるし、今回はそこだけは気を付けて接していたがそれでも及んでいなかったのかもしれない。難しい。その人の正しさに合わせるのだとしたら、私は自分の心配をただただ抱えて内省して「デート楽しくなかったかな?私のここが悪かったのかな?」と聞き出せばよかったのだろうか。付き合ってもないのにそれは重いと思うのだけど。

 

ただある可能性として、求める幸せは私の正しさの放棄の先にあるかもしれない、ということだ。端的に言えば自分を殺して相手を模索しろという結果論で断じられる世界。もしかしたら男女はそうやって回っているのかもしれない。己の気持ちを抑えて義理や人情など交えずに相手に没頭する、それが正しい世界。幸せがそこにしかないとしたら、私はその世界へたどり着けるのだろうか。たどり着こうとするのだろうか。

 

今回の件を経てこれからはまた違う視点を持って人と話すことが出来る。それだけを得るものとすれば良くて、人の善し悪しなんてものはなかった、そう思うことにする。だって全ては巡り合わせで、出会いは引力で関係は相性なのだから。人を許せ。それだけは私の正しさとして変わらずある。母の教えだ。