Right to Light

陽ととなり

But I'm holding on for dear life

久しぶりに体調を崩した。起き抜けから酷い悪寒と吐き気があって腰から肩まで背面全てが筋肉痛だったので、(昨日は雪降ったし寒かったよな)(昨日食べたからあげにんにく効き過ぎだったかな)(寝違えたなぁ姿勢も最近悪いし)などと思って発熱など露とも考えないまま仕事に出た。そうしたらまぁしんどいしんどい。身体は強張り声は出ず手足は震え集中力はゼロ。なんとか帰って熱を測ると39度近くまであった。「でしょうねぇ!」と渇いた笑いも、家には誰もいないので虚しいだけだった。思い当たる原因は多過ぎてどれかわからない。週末に会った姪が熱っぽかったからかもしれないし、急な冷え込みで身体がやられたのかもしれないし、食事の変化で体調が乱れたのかもしれないし、生活環境がまるっと変わったので心労が重なったからかもしれないし、直前になってマッチングアプリの人に会うのを拒否&ブロックされたストレスかもしれない。それでもとにかくコロナじゃなかったし、パブロンをポカリで流し込んで寝てたら1日で回復したのでまだ若さが生きてるなぁと思う翌日の今日だった。それでも体力はめちゃくちゃ落ちてたけど。

 

身体が弱ると心が弱る。弱る心は内へと向かう。私の心はいつだって自分の方へしか向いていかない。ひとり横たわるこの孤独は、なるべくしてなったものだと思わざるを得ない。私の感情とは別に、一端の事実として、私が人を瑣末に扱い思いやりを忘れた結果が今なのだと。現に心は内に向いているじゃないか。人との関わりは引力なのだ。引き付ける力、引き寄せられる力、どちらともが作用してはじめて繋がりとなるのだ。人の縁の切れ目をシビアに感じる。切られた縁ばかりを数えがちだが、一方で同じ数だけ切った縁が、蔑ろにした縁があるはずなのだ。事実は起こるべくしてなっていく。持て余したから捨てたものがいざ今恋しくなったからと言ってどうしてまた手に入れようと縋るのか。あまりにも都合がいい。出した態度と吐いた言葉には責任が乗る。私にはその責任を覆す程の神経の太さも度胸もない。捨てたものが恋しくなっても、ただただ後悔して虚しくひとり耐えることしか出来ない。誰かと一緒じゃないと生きていけない癖に誰かと一緒に生きられる程器用じゃない。憎しみを持つばかりでかつて何を愛して大切にしていたかわからなくなってしまった。出来ないことばかりが浮かんでは気力を奪って消えていく。人生の迷子に自ら飛び込んで、拗らせ、消えていく。私にとって生は最早そういうものになりつつある。きっとこう、誰もが誰もに関心がある訳じゃない。限られた選択肢の中から選ばざるを得ないものを頼りない手つきで手繰って掴んで懸命に生きているのだ。大事なのは何を選んだかではなくて、その道中にあるものだと、半ば諦めめいて悟った振りをして終着としても私の気持ちは晴れないし夜はまだ続く。

 

私より大変な思いをしている人なんてもっといるのだろう。悩みを抱え憂いを帯びて、悲しみと不運の中で灯りを見失い暗がりに居る人が。そういう人達に私はなんと声をかけることが出来るだろう。悲しみを分かり合えるとは到底口には出来ないが、それでも何か役割を持てる人間でありたいが、ただ、いざ現実にさぁどうだと突き付けられるとここまで胸が詰まり、苦しく、悼ましい気持ちになるのだ。