Right to Light

陽ととなり

5年

身体は疲れ心には影が落ち精神は憎しみで出来上がった。この頃疲れがまったく取れない。仕事の負荷が上がったことによる肉体的な疲れと、立場が上がったことによるプレッシャー。つくづく、私は人の上に立つことに向いていないと痛感する。けれどこの負荷は社会という檻で食い扶持を得るために必要な痛みであるということもそろそろ理解している。理解しているというかわからせられたというか。それでも、朝に辿り着き日を越える今の生活に不満らしい不満は無い。これまで抱いていた希死念慮は近頃息を潜めているし何かに打ち込むことが自分と人を繋ぐ一端であるということに気が付いた。私は人が好きで人に好きになって貰いたいが、一方で自分を偽ることに人並みの抵抗感を持つことを覚えたのだ。私の成長と感性の成熟はいつだって5年遅い。

 

年相応のことを真似事でもやってみると、(自分でもこういうことが出来るんだな)と扉が開くようなこともあれば(自分にもきっとこういう世界線があったのだろう、だけどもう望みが薄い)と虚無に陥ることもある。幸せを感じる時は一瞬なのでそれ以外が相対的に落ちて見える。あの夏あのままでいたら、今の私は幸せなのだろうか?考えても仕方のないことに思いを巡らせては勝手に落ち込んで心身を削るのが悪い癖だった。過去がどうあろうと、私が弱く誰と別れ誰に失望しようと生活は続いていくのだ。だからその一瞬一瞬の快楽や謝罪や幸福や虚無は、きっと生活に落ちた一滴の染み。消せないしどうすることもできない。進んできた路だと、これが私の色なんだと居丈高にいた方がいい。

 

苦しくもある。簡単に割り切れることばかりではないし私はここでは生きていけないと首を切りたくなる日もある。米を研ぐ水の中や耳を薙ぎ払うドライヤーの風に、どうしても暗く色濃く染みができる。どれだけ慰められて取り繕おうとも現実は非情で現実的。人並みに生きられる、生きるんだ!と息巻いてもそれが叶わなかった今こそが心を折り夢は叶わない証左になる。ほとほと、精神が蝕まれていく。記憶が薄いのだ。何を思って誰と話したか、それが会話だったのか相手がいたのか独り言なのか誰かの台詞なのか夢なのか確証が無い。あやふやに生きるひとりの私が家のドアを開けた瞬間がらりと人が変われる訳もなく掠れた声で話すはめになる。こうしている今だってどんどん忘れていく。

 

楽しいことも嬉しいことも、悲しいことも苛立つことも含めて生活は続く。これは変えられない。私の心は海に置いたままだから今年の夏もまた出向かなければならない。空っぽの人生にも何か目的があって欲しい、せめてそう願いながら5年。