Right to Light

陽ととなり

手切れの銃で撃ち抜いて

私は憎しみに塗れている。嫌いなものが多い。許せないものが多い。毎日苛立って怒って不必要な程に人を憎んで生きている。出会いも別れも私にとっては例外無く特別で、過去も想い出も私にとっては例外無く今に繋がるルーツだ。だからそれを蔑ろにされると酷く腹が立つ。無かったことにされると本気でどういう思考回路をしているんだと頭が沸き立つ。今まで私が出会ってきた人すべてに何かしらの感情を抱いているし、私はいつだって愛と楽しさを求めていた。いつからかそうやって生きたくなったのだ。いつまでたっても誰かの特別になることのできない私が夜を越えるには明日は良いことがあるはずだと思えるだけの愛の対象が必要だった。いつまでたっても自分を特別だと思えない私が万人と太陽の下で過ごすには辛い時間を上塗りするだけの愉快な感情が必要だったのだ。私はいつもなりたい自分になろうともがいていたように思う。与えられるだけじゃない確立した自己というものを探してモラトリアムを有意義に消費したつもりだ。端的に言えば生のあらゆる面での理由付け。「こうするのが当たり前だから」するのではなく、「私はこうこうこういう風に思った結果したいからする」のだということ。それを揺るがないひとつの正しさとして貫いて生きていこうと今でも足掻いている。ひとつの拘りというのはある種譲れないパーソナリティであり、他者を否定する根拠になる。私の憎しみ、怒りの根底は、他者に垣間見えるその「個の無さ」や私が大切にしている信念を乱そうとする部分である。役割を当然と思ってる人を見るとむかっ腹が立つ。男だから女だから、母親だから父親だから、結婚したからとか恋人がいるからとか、当のお前はどうしたいんだと言いたくなる。ジェンダーロールとか大きな言葉で括る気はないが、男も女も、本当に己の意志の下で生きているのかと大声で問い質したくなる。尊敬できる人に出会っても結局はどの人も大きな流れに乗ってしまう。まるでそこに本人の意志などないみたいに。すると私はその尊敬を蔑ろにされたように感じる。だから人が憎くなる。友情も愛情もいつかはとてつもなく大きなひとつの流れの下に呑み込まれる。だから人が憎くなる。出会った人を好きになっても結局は役割を求められる。すると私は私を見てくれていないんじゃないかと勘ぐってしまう。私じゃなくてもできる役割ならそれはきっと私じゃ無い方がいいと思うのだ。つまり大事なのは求めることのその先で、私が欲しているのはその先を伝えるだけの信頼だろうと今思った。今の私には人を好きになるだけの土台がない。どれだけ相性良く言葉を交わして知り合ったとしても、きっかけがあれば人はそれを無かったことにしてしまう。無かったことにできてしまう。社会的なステータスが足らないからと、『今まで無理してあなたに合わせていただけだ』と言えてしまう。その時の絶望と虚無感は忘れもしない。そんな結果が待ち構えているかもしれない道をどうやって進んでいけと言うんだ?人間不信なのだ。だから信用に足る人と出会えている人達が憎い。そしてそういう人たちが大きな流れの下役割の中で生きているからより憎い。そうじゃない私は外れているんだと言われているようで、私なんて視界に入っていないようで、『どうしてそんなに平気な顔で生きられる?』と聞いてみたい。また『あぁ拗らせてしまっているのね』と言われるだろう。だけど、変えられないんだよ。過去から積み重なってきた思考回路は絡まって解けない。過去は消せないしやり直せない。今まで私が切った人も、今まで私を切った人も、私は今でも特別に思って好きなのに憎んでいる。付けた傷も付けられた傷も無かったことにはならないんだよ。時間が傷を癒すなんて言うのはいつも傷付けた側が言う慰めで、気休めにもなりはしない。カサブタにもならない。生きていく中であらゆることがトリガーになってその度に疼くからだ。過去に囚われて生きているつもりはない。ただ、過去にあった悲しい気持ちを塗りつぶすだけの愉しさが今の今まで無いだけだ。夜を越えることがとても辛い。太陽の下流れに組み込まれて生きるのがすごく辛い。その辛さを越えさせてくれる愛がない。信頼がない。人がない。だから未来が見えないのだ。

 

嫌になってきた。大声で泣きたい。