Right to Light

陽ととなり

好き過ぎちゃってごめんね?笑

会社でカレンダーを貰った。床革にプリントされたトラディショナルなカントリーデザインのカレンダー。リスにヘラジカ、あとはどこかの妖精、名前なんだっけ…ココ・ジャンボみたいな名前のやつがプリントされていて可愛い。ただ私はカレンダーが好きじゃない。いつ頃からか、365日を刻刻と示されることに胸が苦しくなるようになった。この1年で自分はどうなったというのか、虚無にも似た感慨に吐き気がする。曜日がずれた日付を見ると目眩がする。

 

忌々しくもまた365日が終わろうとしている。心と直感に従って過ごしたその日数に何か意味があったのだろうか?何か残ったものがあるのだろうか?多少でも自分で成長を認められたらいいものの、最近の日中の過ごし方を省みるととてもそうとは言い切れない。焦燥に苛立ち、軋轢、日和、不和、馴れ合い、思い返されるのはどれも忘れてしまいたい物事ばかりで自分の生きることの下手さを実感する。楽しかったこともあったろう。でもそれもこれらの日々に埋もれてしまった。私のプラスはいつだってマイナスに染められてその輝きを鈍くする。日に日に高まる攻撃性を自覚しては、自分が嫌いな大人になってやしないかと、自分がされて嫌なことを人にしてやいないかと嫌悪する。楽しさの中に生きたいものだ。

 

言いたいこと、たくさんあるのだ。鞄を作ったこととか好きだった本を見つけたこととかムービーミュージックのプレイリストにただ主題歌が入ってるのはなんか違うとか、やっぱり私もあなたも身勝手で人を振り回す独善的な人間であることとか、それでもあなたが私にとって良い思い出であることが幸せでもあり憎くもあることとか。とにかくたくさん。話して納得することが今の生に必要だと思う。誰が悪いだとか何の所為だとか、あなたが決着をつけたいなら是非そうしたいし、逆に責任を問いたくないと言うのならせめてもう一度いつか私にとどめを差して欲しい。それでも私はただひとつだけ、皮肉でも嫌味でもなく純粋な疑問として、あなたが何を望んでどういう結末を予期していたのかを知ってみたい。人と人との関係の良さは互いに正直であることが前提だと思うので、その前提が無かったから台無しになったのだと思う。話さなかったあなたが不義理なのか?ひとり残して席を立った私が冷酷なのか?裁かれなくてはいけないと思わないか?あなたはどう思うかな。

 

私は人を憎みこそすれ嫌いになることはないのだと思う。いつどの人も愛或いは憎しみと大事さが併存していてそれはいつでも引き出せる。新鮮に腹を立てられるしいつ会っても楽しくいられる。刹那的な人間になったようで。

 

「体調悪いの?」とよく聞かれる。体調が悪いように見えるのだろうか?もう良い状態がどんなだったのかを忘れてしまった。何が正しいかもわからないからとりあえず自分の正しいと思う思うことをして生きようと思う。意図なんてあとからいくらでも着いてくるもので、たとえ都合良く打算を組むことになったとしても自分のしたいことや思うことを行動に起こさないと息が詰まる。自意識さえ除けばそこに妨げるものなんて何もないのだ。

 

好き過ぎちゃってごめんね?私の愛は独善的で色濃く思考を染めていく。こういうことを言うこと自体、日に日に許されなくなっていく。525600分をこれまでひとりでずっと数えていた。