独り善がりの正しさは私を人から遠ざける。それは私が根っからの根暗であり欠片程しか無かった社交性すらも粉微塵にしただひたすらに内に向かって己を進める内向性の塊であるからだ。私は孤独を愛しまた孤独に好かれ、相思相愛を喜ぶ時期もあれど今となってはその付き合いは倦怠期に突入しなんとか切って前進しようとすれどその孤独さが齎す居心地の良さに浸ることに慣れきった故に、改めて進んで人と付き合おうと努めることにある種の絶望を覚えている。これだけでも解るように、私はとにかく自分のことしか考えられないらしいのだ。人が何を求め何を喜び何に怒り何に喪失するのか、どれだけ思考を巡らせどいつだってハズレの正中線を蹴り降ろす、それが私の青春でありモラトリアムであり青年期であった。結果論だけで語られる人生論にほとほと嫌気がさし沈黙に逃げ出した夜を幾度となく越えてたどりついたのが今ある姿だと思うと、10年程前いつか自分はちゃんとした大人になれるだろうと根拠も無しに未来に思いを馳せていた自分に指を差し出し手首を差し出し腹を切ってくれと懇願したくなる。日を経る毎に自分を許せなくなっていく。過去に、未来に、自分が許されなくなっていく。どのようにしてこの生を閉じようかと思案する一方で、またしても性懲りも無く、奮起して輝かしい将来を求める自分がいることが己の人間性の限界であると感じる。
何の契機か因果か、最近前職の頃の夢を見る。光が反射するリノリウムの床、温風乾燥されたリネンの匂い、握った掌からは温雅した温もりと耳を掠める春の風。「職場に馴染めるかどうか不安だ」とこぼす私に上司は「手っ取り早いのは誰かとヤっちゃうことだね」と返して、(oh,man's world.)と思ったのを覚えている。あの頃の私はとにかく何者かにならねばと必死だった。人より秀でねばと思っていた。生きる姿は素敵だったと思う。いつの間にかあの頃に置いてきてしまった私の輝きを今の私はまた持ち得るのだろうか。人生何を始めるにも早い方が良いに決まっている。しかし遅過ぎることはない。今からでも間に合うだろうか。
啓蒙的に得た自らの正しさ、後天的に得た独善性、どちらも揺るぎない私でありその二面性こそが私がかつて愛した人間味であったのではないのだろうか。歌うように街を歩き愛しいものを愛しいと歌い、口笛と軽やかな足取りで奇を衒いロマンスと憎しみを希う、そんな自分を今日のどこかで望んだように思う。今欲しいものは日々を彩る詩性であった。
高校の頃読んでいた小説を引っ張り出した。読み返したいとは思うがその本が変わらず目の前に在るだけで私は青春の詩性を感じられた。今この気持ちを持ち続けていればいずれまた私はまた立ち上がれる気がする。それだけで良かった。今残すこの言葉が一夜の薬にしかならないことは感覚で理解している。ただ願わくば、これを読み返すいつかの私がその日よく眠れますように。愚かな小人の勇気ある魂を思い出せますように。