Right to Light

陽ととなり

発破かけたげる

車を車検に出したら思いがけない金額になった。23万。一人暮らす収入にはとても厳しい金額だった。タイヤが寿命すれすれでいつバーストしてもおかしくないらしく、秋に値上がりが控えているので今変えなければどうあがいても無理とのことだった。その他消耗品の交換、今までスルーしてきたオイルとフィルター諸々。車は生活に必要だからそれにかかるお金は仕方ない。それでもいろいろ我慢して切り詰めて出来た残高を一気に削られるのは思わずその場で『うぅっ』と呻く程の痛手だ。

 

収入の低さは逃れようもなく私に下された評価だとそう思っている。だからこそ、今回みたいな大きな出費がある時は新卒の仕事を続けられていたらなぁと思ってしまう。そんなことが無理だったのは自分がいちばんわかっているのだが、あと一歩耐えれていたらとか頑張れていたらとかありもしないifを考えると、今ある世界の私をも否定してしまっていけない。そうとうすり潰されたみたいだ。鬱で退職した夏から5年が経った。まだ5年?もう5年?どちらにせよ、これまで残してきたブログを見返すと私の考えることは特に変わっていないようだ。自分に自信を持て。過去は捨てられないこれからをどう生きるかだ。悔いるな抗え。恋をせよ。5年経った今、どれも実践出来ているとは思えない。未だに朝は憂鬱で涙ぐみながら仕事する日があるし、自分に自信がついたかと言えば失敗した記憶の方が多い気がする。抗うだけの体力も無く熱を出して全てが嫌になるし恋人もいない。考え方に多少の変化があったくらいだ。それも発展と言うよりは諦めに近い。残してきたからこそ足跡は笑い話でもあり逃れようのない事実でもあるみたい。加えて訪れる希死念慮は私の全ての未来を暗いものとして仄かに枕のそばに立っていたりする。こうやって羅列するとほんと人生というものが、私は何も頑張っていないからなるべくしてなっているのだと絶望を感じざるを得ない。自分に正しく生きたかっただけ。善く生きたかっただけだ。

 

正しさも善性も倫理も、今まで育んできたものが徹底的にすり潰されて致命傷になったのに、たかだか5年かそこらで立ち直れるものか?という思いもある。私は無理だった。恋も、どれだけ近付き合ってもたった一言ですべてをひっくり返されてしまうことがあるということを知った。それだってもう半年も経つのに私の心に蟠りを残したまま消える気配が無い。ばらばらになった心を繋ぎ合わせるには時間が必要だったしまだ心は壊れたまま。ひっくり返された信頼をまた人に向けるには立ち上がるための土台も掲げる指針も無くまだ自分が浮ついたまま。なにより私はずっとひとりだった。支えてくれた家族と友達はいたが私の心はひとりだった。今もひとりだ。だから朝は憂鬱で泣きながら仕事をして人を好きになることに怯えている。どうしてこうして生きているのだろう。

 

好きなものは家族。今はそれだけ。友達はみんな忙しそうで、社会は私には合わなくて、私はそれに立ち向かうだけの能力が無い。今自分にあるものを愛していくしかない。これも5年間ずって言っている。家族、友達、暇つぶしに夜の散歩。それと考えの少しの変化。どれも善し悪しどっちの面もあって、あること自体に感謝して生きようと思う。5年経った私にはこういう生き方しか出来ないみたいだから。