Right to Light

陽ととなり

3年目の昔話

私というのは孤独を愛しまた孤独に好かれ、ペシミズムを謳って孤高を気取ってみても、どうあっても他者との関わりを絶てないもので、それは偏に挫折する前の心を取り戻し、またどこかで自分は立ち直れるのだと、一縷の希望を抱いているからだと思う。

 

先日、前の職場の元同期と食事に行った。私がその職場を辞めたのは丁度2年前の夏で、その元同期は私が社会人と呼ばれる様になってから初めて出来た繋がりのひとつであった。彼女は私より歳下であったけれど、私よりずっと先を見据え忍耐強かった。その姿を見て自身を恥じることも少なくなかったと思う。彼女は(少なくとも私以上に)懸命に働き、歳並の情緒と不安を抱え時に脆かった。仕事で顔を見れば挨拶を交わし帰り路にお互いに愚痴を零す、それだけの間柄だった。私が仕事を辞めてからも度々連絡をくれてはいたが、思い出せば辛い記憶の方が多かった私のせいで、それも無くなっていった。今振り返ればそんな経緯も無かったかのように、彼女を食事に誘っていた。それは夏の衝動や酔いに似て、ただ“人”に飢えていたからだと思う。彼女は変わらず懸命に働いているようだった。正直に言うと彼女との会話には共有だけがあって、「今日はこういうトラブルがあって〜」とか「上司と先輩の対応が〜」とか、事実のみを話しそこに乗る当人の感情や共感は薄かったように思う。でも当時から彼女との会話はそういう風で、それが私とする彼女の会話の役割だと思っていた。(彼女には感情に乗る本心を話す相手がいた。)それが善し悪しと言う話では決してなく、彼女の口から出る言葉や名前のひとつひとつが、私にとっては過去に抱え切れず捨てたものであって、それが彼女の“今”なんだなぁと不思議な感覚になってむず痒かった。相変わらず燻っている毎日な私の近況を話すと、彼女は所在なさげに言葉を探しているようで、その姿を見て私もまた、はにかむことしか出来なかった。私が彼女の“今”の話に気落ちすることも後悔することもなく居られたのは自分でも意外だった。私が今の生活で安定はしていることと、変わらず居てくれて嬉しいということは伝えられたので、その再会の意味はあったように思う。互いに目を瞑れる程度の不満を抱えて暮らしていると、些細な共通項がひとつの繋がりの様に思えて嬉しかった。

 

人との縁の切れ目を感じとれる様になってきたと思う。連絡は手軽に身近であっても、動機が薄れれば最早意味は無い。そう考えれば、飢えを満たしたり寂しさを埋めたりといった不義理な動機でも、連絡ひとつしようという想いが残っているのは喜ばしいことだと思う。3年目の彼女がもたらしてくれたのはあの頃の歪な私の感情ではなくて、意外な程の愉快さとふくふくと胸が満たされる充足感、人との繋がりだった。愉しい夜で居てくれて本当に良かった。