Right to Light

陽ととなり

どうして戻ってきてしまうのか

友達のことを思い出す。大学の頃の仲の良かった友達。彼はチャラくイケていて、かといって軟派な訳ではなく真摯で真っ直ぐだった。才能と能力を十分に持って魅力的で自分の魅せ方を知っていたように思う。なぜそんな彼と私が懇意になったのかはもう些末なことだが、今になって彼は彼で当時に一生懸命だったのだなと感じた。彼は正道を知っていた。弱音を吐かず隙を見せない彼を面白くなく思うときこそあったが、狂人の真似事をする私と違って彼には芯があった。そこから始まる努力の積み重ねが今の彼をより輝かせている。人の生はいみじくまっすぐで酷く残酷だ。彼を見ていてそう感じる。

 

また寝れていない。自分の生が過去の狂人の真似事のお陰で狂っているのだとしたら、私は何を思おう。彼みたく真っ直ぐを積み重ねていたとしたら、私は何を思おう。考えを巡らせても生活は変わらない。相変わらず忙に忙を重ねて明日が来なければいいのになんて思っているのだから。彼のことを思い出したのも、いつか自分が描いていた未来設計図の上に彼がいるからかもしれない。私は、私でいること自体に自信が持てなくなってきた。何度目かの失敗がそう思わせる。あの時の私だって一生懸命だったはずなのに、何時の私だって虚勢ではあれ誇示していたはずなのに、明暗がここまでとは。今が朝じゃなくて良かった。堪えきれない衝動は生活の変化を求める私の願いを叶えてしまう。理性は生きている。止めようと思っても止められないのが難しさだ。酒も遊びもギャンブルも、羨望も嫉妬も自分の人生を意図しない色で塗るだけなのに。

 

生きているだけで金がかかる生活に心底うんざりしてきた。足るを知らない私には自制が難しい。その癖無いものを徒に求めて有る人を贅沢だと嘲る。今の私を彼はなんと言うだろう?正道に真っ直ぐ当たり障りのない励ましで流すのだろうか?こんこんと、積み重ねてこなかったことこそが罪だと、その罰が今なのだと突きつけて終いだろうか?いずれにせよ応えを貰えると思っていることすら烏滸がましい。誰もが当然に応えを持ち合わせていると思ったら大間違いだ。人は見たいものしか見ない。いつか出したその考えを私は憎み恨み世界に中指を立てたはずなのに、どうして、どうして私は、また戻ってきてしまうのだろう。