Right to Light

陽ととなり

飲むならモヒートを

例えば今までにあった不幸が全て帳消しになるほどの幸福を与えられたとして、それで人生プラマイゼロ!と楽天的に考えられるだろうか。

 

先月から仕事の裁量が増えて、平たく言えば進行の監督とそれに伴う指示をする必要があるのだけど、やはりどうにも私は人に何かをお願いするのが苦手だなという思いが拭えない。そのハードルを乗り越える為に必ず一呼吸要するし、業務上必要という名目があってもそうなのだからもう生来の人間として向いていないのだと思う。そもそも労働という行為自体が向いていない。課されている以上のことを暗黙に求められるのが常態だし、実態そうじゃないとしても私は性格上その言葉の裏を空想してしまって勝手に自分に課すし、その空想の枷に自ら捕われてもがいているのが先月からの私だ。だって周りで働いている人世代問わず誰も彼も優秀なんだもの。課題に対する姿勢一つ、会話に対する言葉一つとっても私とは根っこの意識が違うんだもの。劣等感に塗れる。いつも目に見えない“姿勢“というものを当然に求められている気がして、個々人の中にしかない尺度を言葉無しに求められてもその寄りかかりで精神が摩耗するだけだ。私の言動全てにこれで良いのだろうか?という思考が降りかかる。「その思考を続けることこそが人との関係構築よ」という友達の言葉を拠り所になんとか続けているけれど、精神の摩耗は身体の強張りとなって肩凝り首凝り筋肉の倦怠感となってこの爆弾低気圧の週末にまとめてのしかかってきた。勘弁して欲しい。サロンパスとアンメルツじゃ追いつかない。

 

晩酌することが多くなった。元々強い方では無かったから量は多くないけれど機会が増えた。アルコールを入れた夜は思考が溶けて余計なことを考えずに眠りにつけるのだ。余計なことっていうのは漠然とした将来の不安であって、それを因数分解すれば友達と少なさとかその少ない友達の結婚報告とかそれに伴う10年恋人が居ない己への憂いとかその憂いを帯びても尚必死しさに欠ける私の幼さとかetc…etc…。今まで青春の中で築いてきた自分の中の正しさというものを見直す機会があってそれに臨んだ時、見えた景色はなんとも耽美で人間的で動物的で、私にとって些かグロテスクでもあったが鮮烈にリアルで鮮やかな世界であった。今はまだ与えられるだけの世界に過ぎないけれど、それでも人生の一節として間違いなく残る強烈な刺激。それをこれからは私自身の手で作り上げていくのが新たな正しさ、ひいては愛への恩返し、遠い道程ではあるが最中の楽しさもきっとあるだろう。楽しければそれでいいじゃん!と、その享楽を代償の責任を理解した上で得られるのなら、それがまた私には無かった正しさになるのかもしれないのだから。

 

人恋しく文字を連ねても夜はただ過ぎていくだけ。飲むならモヒートを。寝るなら隣で。