Right to Light

陽ととなり

When will your date change?

と、最初に思ってから何度目だろう。1人で歩く夜の中で、息が詰る夏の日差しの中で、胸を抉られる罪悪感と選択の中で、何度同じ疑問を私は己の胸に突き刺しただろう。

 

週末に情緒が決壊して、PTSDめいて1人家の中で泣きながら夕食の支度をしている時に頭の中に回っていた言葉はそれだった。変われない私に価値はない、価値が無いから私の周りから人は去っていく、突き刺さった問いからはその2段の帰結だけが延々と流れ出た。

 

私は割と人に言ったこと言われたことを(善し悪し問わず)覚えているタイプでそれを元手に信頼の土台にしたり言い訳の名分に使ったりするのだけど、実は一般的じゃ無かったりするのだろうか?その元手の言葉をまるで無かったかのように振る舞われると、「あの時ああ言ったじゃん!」と人のせいにする口ぶりになってしまうのが私の嫌なところだ。なにせ人は変わる。人の気持ちは変わる。変わると言うより、私が人に対してその時の信頼を維持してくれるような関係構築力を発揮出来ていないと言った方が正確。だってじゃないと全てを人のせいにしてしまう。人のせいにするのは良くないと小さい頃から信じて生きてきた。自分は悪くないと思っても、何か他人との衝突があったのなら己にも省みる点はあるのだと、衝突した事実からそこを見出すのが成長だと信じて生きてきた。例えそれがもう取り返しのつかない衝突になってしまったとしてもそれは己の責任だった。思えば今までも何度かそういう衝突はあったけれど、どれも相手の許しによって私は生きてこれたように思う。私は人に恵まれている。

 

人に恵まれているから、やはり非があるのは私の方なのだ。私には人の気持ちがわからない。わからないと手放したくないから思案を巡らせるけれど、どうしていつも配慮が足らない及ばない、心の無い言葉を浴びせてしまう。内省こそが成長だとどの口が言えよう。その度に罪悪感に心を黒く染められて、そうして自分が嫌になって人を避けていく。心を隠す。言葉を濁す。真意は喉元すら届かずに内に溜まり私の感情をヘドロにする。掃き溜めのような言葉を残してなんになる、と思いつつもそうしなければならない自分に、掃き溜めにするしか選択肢の無い自分にまた嫌気がさす。負のループだ。

 

人より秀でねばと思っていた。人の中で必要とされねばと、それが私の生きる理由だと知らず知らずの内にそうなっていた。それははじめて働いた夏の頃に頭を支配していた考えと同じだった。そして今でもきっとそう。人の中に自分の姿を見なければ私は私がわからない。私のことを自分で評価していた私は、その評価に自信を持っていた私は、あの夏の頃にすり潰されて壊れた。私が私を支配して壊した。人のせいには出来ないから、結果、私が壊れた。私はただただ必要とされたかった。その為の努力が及ばなかったのは私の方なのに、壊れてしまった。だから心の柔らかい箇所に深く爪を立てられた時、私は私がわからなくなる。憤ればいいのか?いや、たまたま知らずに引っ掻いてしまっただけかもしれない。泣けばいいのか?いや、泣いたところで何も伝わらない。私に出来ることはその場に立ち尽くすか傷などついていないような顔で立ち去る2択だった。だからその2つの選択を失くした時に、私は泣いた。憤った。感情のままだった。そこで冷静になれないのだから、私は変われないというのに。必要とされない私は生きる理由がなくなった。その目に映る己の姿さえ私は自分で消してしまった。人の中に私を見出せない私はこの世のどこにもいなかった。

 

失敗を繰り返す度に言葉に価値が無くなっていく。信頼は失われその目から私は消えていく。でもせめて何か残るものがあって欲しい、遠い未来でまた悩む私に、思いを揺さぶる何かが今日の言葉にあって欲しいと願って、それが救いになると願って、今日を終えていく。