Right to Light

陽ととなり

輝きたい愛されたい

昔から春は苦手だった。入学や新学期は自分の力ではどうしようもない変化の力で、そこに馴染めるかどうかの不安は大きく、親しい人と離れる寂しさが次に進む気力を奪っていた様に思う。その不安も歳を重ねた今になっては自分の人付き合いの力量を把握した故に、変わる環境のストレスと変われない自分の苛立たしさにランクアップした。浮き足立つ世界の中で私だけがいつまでも過去に縋ったまま取り残されたまま、周囲が色めき青春と変化を謳歌していても私は私だった。

 

私がこのブログに向かう時は決まって何か後ろ向きな理由がある時だ。それは気持ちの整理なのか、鬱憤晴らしなのか、とにかく内に抱える靄を取り除きたくて、誰かに頼ることを知らない私はこれまで何度も言葉を探して残してきた。だから今日もきっと胸が詰まって苦しいのだけれど、何を残せばいいかわからない。このブログはいつも寝る前に書いているけれど、本当は日中私の胸の靄が極限まで煮詰まった時に文字にしたい。慣れたベッドの上で横になる私と社会に放たれ孤独な私はまるで別人格なのである。断然後者の方が真意に近い。仕事に対する意識の差、鬱陶しい春の色めき、無い返事と既読の二文字…ある人の幸せはまたある人への暴力であって、どれもまるで私が頑張っていないようなニュアンスを静かに感じさせる。年明けから、ハードルを低くすれば去年の夏からの私は、よくやってきたように思う。だけど自分では努力をしてきたようには思えない。人からの賞賛は受けるべきが礼儀だとしたら悲しいけれど、それでも私はまだ自分を褒められずにいる。+‪αの努力じゃない、ただ必要なことをしていただけ。だって、もし仮に私が努力をして結果が出ているのだとしたら、こんなに惨めなはずないのだから。私より報われるべき人がいる、順番待ちなんだと気休めをかけるがそれにも限界はある。報われない、自分を認めてやれず人を信じられずに向かう先はなんだ。「一生このままなのか?」そう考えることも悍ましい、春の靄。私は必要な人になりたかった。仕事でもプライベートでも、私を知る全ての人に私でなきゃ駄目な理由を持っていて欲しい。

 

そんなことを仕事中考えていたので今夜はいつもの倍心が重い。身の程知らずな承認欲求の吐露は後ろ向きだろうか。子供の頃から同じ、何度春を迎えようと私はもうきっと変われない。どこまでも自分のことだけ、なのに自分のことすら愛せない。この春が終わる頃の私はどうだ。