Right to Light

陽ととなり

ラブフール

一瞬にして息衝く秋の様相に季節の変わり目を感じる暇もなく、今まで跳ね除けていた起き抜けの布団の温さが心地良さに変わる今日この頃、たまたまの時間に見た名月をして初めて季節に関心が向いた。月だけは綺麗な晩の妙、疲弊した心身でもまだ月を綺麗と感じるだけの猶予があることに些細な活力を見る。秋の月は夏のそれに比べて濃く煌々としている気がする。夏の鬱が因縁に決着を付ける怨嗟なのに対して、秋の鬱は徒に踏み出したその足跡を振り返ることに己の歪さを見る執着である。私の鬱は季節と巡る。潮風に乗る肌寒さを忘れさせるような陽陽とした陽射し、出かけに慌てて取り出したMA-1が思いがけず様になったことを覚えている。交わした言葉も見せた表情も今では昔のことだが、その時の私にとっては突き抜ける秋の晴天のように爽やかでまさに新風とも言うべき出会いだったのだ。いや、些か遡り過ぎか。それは私の生き方の留め石のひとつであって、見るべきはそこから懇々と繰り返される言葉の潮流の方でありたい。思いは営みの中で育まれる。意識しないうちにいつしか愛したその潮流は、今となっては生まれてはじめて愛した自分の生き方そのものであった。秋の鬱は思い出を反故にしたのは紛れもなく自分であるということを突き付ける。展望と喪失、いつかこの感傷で首を吊るだろうという思いがある種の道標となって私を世界から守っている。

 

病院に掛かることにしたのは良いが何を話すべきなのだろうという不安が沸いてきた。具体的な症状というものが私にはわからない。気分の落ち込みや食欲不振、睡眠の低下や意欲の消失はもう日常になってしまったようだ。愚かに嘆かわしくも私は、こうになってまでもなお未だに自分は何も努力や奔走を成し遂げられていないと心の奥底で思っているのだ。全ては結果から、今日この日から生まれる。それは例え過去に何があろうとも変わらない事実であるのに、自分自身が積み上げてきたものを自分自身で信じられずに、あまつさえ誰にでもできることだと、個を失くした己の生き方そのものをくだらないと完全に馬鹿にしているのだ。自己肯定感などあったものじゃない。私は抱える弱さすらも誰にでもある地獄だと、だから耐え忍ぶことこそが生なのだと逃れられない三段論法をして身を苦しめている。まとまっていない思考を人に話すのは怖い。その怖さゆえにつぐむ口を見ては、人は私を話せない人間として扱うのだ。本当に救えない。

 

手紙の世界に生きたかったと常々思う。今のこの誰もが誰もの目である視線の世界では私はひたすらに自分を追い詰めてしまう。もしも手紙の世界なら、そこで己の愛も愚かさも晒け出して理性と衝動と呼応の言葉の渦の中、生を粛々と謳歌出来ていたのに。そしてその世界でも月を見ては同じように、こうして堪えきれない胸の奥を半ば無理やりにこじ開けてはみてくれをなんとか繕い、自分もこうして何か成せるのだと誰かに見て欲しくて堪らない、それこそある種くだらない自分の一片を晒すのだ。

 

いつか、いつかこの感傷に首を括る時が来たらその時は、どうか海の見える秋の下であってほしい。身の程知らずに願ってやまないその思いだけが、今ある救えない自分の微かな拠り所になっているのだから。