Right to Light

陽ととなり

私を見初めて。そしたら切って。

「君はADHDなのか?」

ビールを片手にした友人にそう聞かれたのは、私が薬を飲むのが苦手だと言う話をした時だった。私の数字への拘りと物事への執着の強さからそう思ったらしい。なるほど、そういう診断は受けたことが無かったなと答えた。というより私はその手のアルファベットの病名に疎い。ADHDだとかHSPだとか発達障害だとか何がなんだかわからないのが正直なところだ。そういうものへの理解はしているつもりだけれど、実際のその人への接し方というものはまた決まって人それぞれになるもので、だったらそれは病的な名前を何も持っていない人と何も変わらないのではないかと思う。結局は当人が納得したいかどうかの要素が大きい気がするのだ。私も鬱と適応障害の診断をくらったことがあるけれど、それを受けたからと言って何か自分が楽になったりそうかそうか私はこういう人間だったのかと楽観的に納得することは無かった。抗う私も生きる私も死にたがる私も等しくひとつの魂で、時々で色が違うに過ぎないのだ。

 

生きるというのはほとほと疲れる。人付き合いというものを欲すれば欲するほど、嫌な部分や許せない部分が見えてそういう自分を嫌悪してまた疲れる。私は人のことを考えるということがどういうことなのか本当にわからない。どこまでいってもそれはエゴにしかならなくて、考えても答えのない結果論の世界。配慮と運の人間関係ばかりを繰り返しては難航して失敗しその度自分を責め続けるから自己肯定感はもはや塵となった。それでも人が好きなんだから致し方ない。私の生き方は自分の首を絞め続けることで成り立っているみたい。

 

ばらばらになった心を繋ぎ合わせて、その不安定さの中でなんとか幸せを掴もうと足掻いてきた。だけど最近、仕事、余暇、趣味、恋愛、自分のあらゆる領域で心がほつれ端から崩れていく音がする。失敗体験だけが心を蝕み成功体験は空っぽの海には響きもしない。毎日同じことで悩んでは吐き出すことの繰り返し。ご飯も最近美味しくない。生きていて楽しくないのが現実だ。夜が来たから寝るだけなのだ。

 

今夜はお月見だったみたい。家の窓から雲隠れの月が見えて、虫の声とともに夏の終わりを感じ見た。あ、私は別にADHDとかじゃないよ。ただただ好きな数字があるだけで、ただただ習慣というものが苦手なだけ。敢えて名前をつけるなら『未練がましい』だ。そう言うとその友人は笑ってビールを飲んだ。私は人に笑って貰えることが大好きだ。人に楽しんで貰えることが大好きだ。人と会うことはいつでもウェルカムだけど、同時に別れも必ずある。そうした週末は疲れる。それだけだ。この世にはどこまでいっても事実だけ。自分が納得するかどうかの違いしかない。