Right to Light

陽ととなり

12月の鉄格子

朝、寒過ぎる。入タイマーを付けてベッドに入ったのだが部屋を暖めるだけの風量は寝るにはうるさ過ぎた。心地好く寝る為のエアコンに安眠を妨げまられるとは一晩寝るのもままならぬものよ、そう思いながら風量を2段階下げる代わりに温度を2℃上げた。リモコンを壁掛けのホルダーに戻す。このリモコンには収まるべき場所がある、こういうことに気付くと私は嬉しくなる。楽しいね。

 

家の中の寒さがあまりにもだったので週末から着る毛布を導入した。ついでにルームシューズも。これがとても良い。毛布というものに対して持っていた印象が“お婆ちゃんの家にあるひたすらに重く身体を圧迫するもの“でしかなかったので、売り場で持った時の軽さやふわふわとした肌触りは革命的であった。着る毛布、着てみるとなんとも暖かい。そして軽い。ミドル丈のひらひらとした立ち居振る舞いも私好みだ。言うなれば旅館で着る浴衣のような、ホテルで着るガウンのような、生活が1段変わったような高揚感。この高揚感こそが暖かさの秘訣なのだろうか。仮にそうだとしたら高揚感さえあればこの寒くて苦しい世界は変わるのでは…?みんな!今すぐ高揚感を覚えよう!ごぼうをひたすらささがきにしたり、どれだけ高額でもいいから欲しい物ベスト5を考えてみたり、愛を叫んだり未来を望んだり着る毛布を着たりなどして。

 

仕事のモチベーションが低い。年末進行でゆったりと時間が流れていくせいで集中力が切れる。すぐメモにある歌詞や、読みかけの小説、点滅する連射コンのことばかり考えてしまう。職場の空気も意識もどこか弛緩していて、そのことに対してそれに呑まれる自分も含めて私は腹を立てていた。博愛に定評のあった愛すべき我が器量も狭くなったものだ。この一年で輪をかけて狭量になった気がする。人へも、自分へもだ。着る毛布が必要だ。

 

自分のことも家族のことも恋人のことも仕事のことも、考えることはいつも一気にやってくる。全部を救わなくてはならない。無理ならせめて自分以外は救わなくてはならない。でももし人がそれを前提とするのなら?自分から発しない言葉でそれが何かを汲んで貰えるのなら、そんな優しさはただのまやかしで人間関係の認知を歪める甘やかしだ。(まやかしと甘やかしがかかっている、楽しいね。)家を出る人も故郷に帰ってこない人も、どっちも勝手にしたらいい。無い返事も甘えた回答もそれがパーソナルなら良いだろう。私はいつも流れる石で、流されるまま削られるままに生の奔流で形を変える必要があるみたい。そうしていつか元の形もわからなくなって川底に落ち着くのだ。

 

窓に嵌った鉄格子、そこに滴る早朝の結露はすごく綺麗だった。12月の鉄格子、5階の窓から見える景色は確かに満ち足りて、その先を覚えさせていたように思う。その感覚をもう一度探して奔放するけれど、やっぱりいつも何かが足らないのだ。