Right to Light

陽ととなり

何の役にも立たない僕へ

僕は冷めた人間だった。頭が特別よかった訳でもなく、運動が特別出来た訳でもなかった。言葉が知己に富んでいるとか、ユーモアに溢れているとか、そういうことは一切なかった。小学校を卒業して、自分という片鱗が少し見え隠れしてきた時期から、その時から僕は冷めた人間だった。生来からそういう人間だったのかもしれない。別に何かに全くの無気力ということでなくて、部活は一生懸命やっていたつもりだし勉強だって一生懸命して普通のラインを維持していた。それでも過去を振り返ってみて物足りなさを感じるのは、その一生懸命さが自分から生まれたものじゃないと、今になって考えるからだ。その一生懸命さが必要だと、今になって思うからだ。

 

自分から生まれる熱さ、情熱。それを持っている人とそうじゃない人の違いは高校位からはっきりしてくる。「こうなりたい」「あれをやりたい」、そういうビジョンを持っている人には情熱がある。僕にビジョンがなかったとは言わない。でもそれは自分から生まれたものではなくて、人に勧められたものだった。僕の中の情熱は、いつも人に点けてもらうものだった。僕が欲しいのは、いつだって情熱だった。この身体を突き動かす、熱く、猛る情熱。

 

何をするにも納得は必要だ。納得が力になる。自信の裏付けになる。情熱を求める今の僕にも納得がいるのだ。働く理由がいる。ひいては生きる理由がいる。その理由が見つかれば、夥しい程の面倒臭い障害も少しは軽くなるはずだ。意図のわからない説教も、関わりたくもない人間も、「あぁそういうものなんだ」と納得して進めるはずだ。間違えてはいけないのが、納得は許すことではないということ。事実は事実として受け入れ、それでも許せないことは、許せないこととして受け入れる。理不尽は許してはいけない。このことを忘れてはいけない。

 

情熱をエネルギーに、納得を持ち、理不尽を許さない。これをしばらくの目標にしよう。陽が長くなった。バスは揺れる。電車は来ない。風は湿気を運んでくるし野良猫は歩く僕をじっと見る。どうしようもない他人のことを考えるのはもうやめだ。どう見られようと、腫れ物扱いされようと、無能の烙印を押されようと、全ては結果で納得で受け入れるしかない。その納得の生活の中で、欠片でも情熱を見出せればそれでいいじゃないか。高望みをし過ぎたのだ。

 

叶うのなら、僕のこの愛すべき初夏の決意に靄をかける、邪魔なプライドを滅多刺しにしたい。

 

今週のお題「もしも魔法が使えたら」