Right to Light

陽ととなり

どうして情熱を失くしてしまうのか

熱くなれるものが欲しい、常にそう願っていた。部活、趣味、恋、時間を忘れ自分の思うままに心を支配できるもの、それに尽くすことが辛い現実からの解放であって生きる楽しみだと考えている。僕は作ることが好きだった。小さい頃なら工作、木工、作文、少し前なら革、今ならお菓子。なんでも良かった。自分の作ったもので他の人ないし自分の心を動かすことが出来るとものすごく嬉しかった。作ったものを褒められるとすごく嬉しかった。自分は何かを生み出せると思えることがすごく嬉しかった。「作る」というのは物理的なものだけじゃない。文字を綴ることだって、言葉を考えることだって、自分の考えや思いを誰かに伝えることまでしなくても、心の中で生み出すことで僕は僕を作っていた。詩だって書いた。短歌だって詠んだ。今となってはもう思い出したくもない歯が浮くような台詞を使う相手もいないのに考えた。あの頃の僕の欲の泉が尽きることはなくて、電車に揺られながら31音を揃え起す時間は最高だったし講義中に書くレザーアクセサリーのデザインは僕の宝物だった。時間を忘れて革を縫いあげ毎週末次は何のお菓子を作ろうかなとワクワクしていた。(この記憶に恋愛が絡んでいないのがとても淋しくあるのだけど。)

 

情熱があった。情熱に心は支配され、孤独と不安を吹き飛ばした。僕に誇りを持たせてくれた。

 

だけど今は違う。どうして僕は情熱を失くしてしまったのか。かつてのごうごうと盛る篝火から、灯火を仄かに揺らす一本の蝋燭に成り果てた。

 

それをすることに飽きてしまった訳ではない。ただ、する気が起きない。「して何になる」とバカみたいな達観を気取っている。お金だって使うからそれを気にする。でもきっといちばん大きな要因は、情熱で孤独や不安を吹き飛ばすことが難しくなったからだと思う。何かに打ち込むのは、今いる辛い世界を忘れたい、目を背けたいからだ。逆を言えば、辛さを忘れられなければ、打ち込む理由が無くなる。生活の半分を占める悲しい現実は侵食するように残りの心を染めていく。その生活の半分半分でうまく切り替えが出来る人なら良いのだけど、僕みたいな不器用な根暗には理想を体現するように難しい。

 

楽しい時間を過ごしても辛い現実は消えてくれない。少しでも薄れることを期待しても、現実は足音も立てず心を影へ引きずり落とす。僕は自分のすることを常に正しいと思っていたい。正しさの白の中で、現実を忘れるとかではなく純粋な楽しみを求めて、衝き動かされる情熱を持っていたい。個性に生き恋に溺れ、創り上げる自分の頭と手を愛していたい。どうして僕は情熱を失くしてしまうのか。違う、失くしてしまった訳ではない、少し足元に置いてあるだけなのだ。そう思うことにする。仄かに揺れる蝋燭を頼りに照らしてみれば、また別の情熱が微かに光っている。人のしてきたことはそう簡単には消えない。地面に置いたって輝きを失くすことはない。そうであるべきだ。また拾い上げれば良い。

 

週末はダーツをやってみたい。そしてシュークリームを焼こう。純粋に、やりたいからだ。