Right to Light

陽ととなり

失恋はつらい

お嬢様になりたい。なりたくない?その気はなくとも優雅で品があって周りのオスどもを色香に迷わせるような、そんなお嬢様になりたくないか?そうすれば少なくとも、今抱える曖昧な恋煩いも無くなるんじゃないだろうか。自然に"曖昧な"と付けてしまったけど、こうしたのは僕自身がその恋を認めたくないことの表れなのか。今まで成就した恋愛の方がはるかに少なくあってない霞のような恋愛経験の中で学んだことは、なにはともかく「失恋はつらい」という事実だ。あまりに魅力的な世の女性達の色香に迷わされ早幾年、挑めども挑めども悉く空振りし擦り玉から学びもせず絶好球は何度見逃したことか、打率が1割を切り遂にたどり着いた先は「傷つくのが嫌ならハナから好きにならなければいい」という、現実という名のバッターボックスからの逃避であった。この歪な思考が僕の恋心に曖昧さをもたらしている。ベンチからチームメイトを見てみれば、来る球来る球すべてをスパンスパンと打ち返す色男に、絞りに絞った狙い球を磨きに磨いたスイングで鋭く捌く仕事人、気取らず飄々とそれでいてしっかり結果を持っていく優男、どれも華やかで男らしくかっこいいじゃないか。僕はまたバッターボックスに立てるのだろうか。

 

ふとこのままの生活も悪くないんじゃないかなと思う時がある。居場所があり友達がいて遊びもロマンスもあるこの生活が。嫉妬と羨望で夜も眠れなくなるようなこの生活が。でもはっきりわかっている、それでは僕は幸せにはなれない。僕の求める理想像は、今の生活の先にある。幼い頃から青春を通して描いてきた素敵な大人に僕はなりたい。

 

あぁ常々、情動は人を生かすというものだ。昼は恋を泳ぎ夜は嫉妬に溺れ、一方で底が見えるほど浅い自分の甲斐性を呪ったりそれでもなんとかもがいてみたり、うまくいくことなんてほとんどないのだけど、それでもたまにあの娘が笑ってくれればそれだけに満足して眠りにつけたり。そんなことを繰り返していたら、また少し、バットが握れるような気がしてくる。今度は見てろよと不敵に笑って、次のスイングを考えるのだ。望む生き方をしたいなら、傷つくのは御免だとか言ってられない。そんな甘えはそれこそベンチに置いてくるべきなのだ。

 

君とはとても楽しい時間だったよ。これからもどうぞよろしく。そんな風に傷つく心を隠さないのも、また大人ならではの恋なのかもしれない。

今日の幸せを許して

雨の中を歩く。傘が邪魔だなぁとか足元が悪いなぁとか、そんなことばかりが障害ではなくて、きっともっと晴らしたいものが溜まっているからこそ、わざわざ雨の中を僕は歩く。焼肉の煙の香り、連なるスーツの人、帰りの電車でを待つホーム、そこかしこに昔の僕の面影を見る。少し前は自分もそこに存在していたのに、もう今ではすっかり変わってしまったなぁ、また戻ることができるのかなぁなんて不思議な懐かしさを覚えたり。その面影に想起されることはどちらかと言えば辛く切ないものなんだけど。振り払えると思っているのなら少し考えが甘いのかもしれない。孤独との付き合い方をアップデートしていく必要がある。切なさと付き合わなければならないからこそ僕は歩くのかもしれない。暗く深く自分を見つめて雨に唄えば、その時だけでも孤高になれる。気高く振る舞える気がする。その時だけは、不甲斐ない自分から目を反らせる。それが許される気がする。

 

いつだって自分はここにいていいのかと問い続けてきた。自分で作った居場所でもそれがあまりにも不自然な不用意な気がして安心できないから。そもそも落ち着ける場所が欲しいのかすらよくわかっていないのに、満足できるはずがないのに。ないものねだりが度を過ぎて、自分を責めることしかできない。もっといろんな選択ができるのだろうけど、どれもあまりにも自分から乖離しているように見えてならない。はぁ、本当にどうしようもない。未来を切り開く覚悟すら持てない今に、文句を叫ぶ資格はない。もっともっと、毎日が楽しいことで溢れていたらいいのに。なんの不安もしがらみもなく、ひとりひとりが孤独と触れ合いの中で個性を認め合えればいいのに。でもこれ、現実なのよね。

 

今日みたいに楽しい日がずっと続けばよかったのに。そう願ってやまないのはまた明日がくると孤独に放り込まれてしまうからだ。ありとあらゆる場所で試され己を磨き、それでも満たされなければ努力不足だと即座に切り捨てられるからだ。でもこれが、現実なのよね。

 

暗くなるつもりはなかったのになぁと思ってももう遅いみたい。でももう少しだけ、太陽が昇るまでは、夢を見させてくれ。過ぎ去った幸せに浸らせてくれ。

さみしさのセオリー

楽しかったことがあった時程それを形にして残そうと思っていたけど、最近その形の作り方を忘れてしまってもったいない気持ちになる。楽しい時間を過ごした分だけまた孤独になる。人と話した分だけ自分と話さなければならない。向き合わなくてはならない。その楽しさの余韻に浸ったまま眠りにつければまた続く夢を見れるのに、これはもう"サガ"である。さみしさが募り過ぎた者の性分であるから変えようとしても染み付いていて拭えるものではない。僕は僕のまま、変わることもなく憧れ傷付き偶に身の程知らずの恋心を抱く。抱いているその気持ちに身を切られているといるのに、学びもせず痛みに耐えるのだ。負けるはずがない磨き続けてきた自己愛すらも、その時になれば劣っていることを目にしてしまうのだ。何者にもなれないことは解っている、だから自分になるしかないのに、その自分すら……ここまでくるとその出来事すら本当に楽しめているのかと疑問符を打ってしまうのが悲しい。目指すべき姿を失った人間はいったいどこへ向かうのか、道導すら掴めないまま楽しさは夜に浮かんでそのまま黒い空に溶ける。

 

知って欲しい部分と知られたくない部分、知りたい部分と知りたくない部分、その線引きに躍起になっている内に時は過ぎ夜は更け結局何も生まれることなく終わる。手元にあるのは元から持っていた表面ばかりピカピカの中身の無い偶像だ。その偶像で何をしようとしていたのかも今ではもうわからない。捨ててしまえばいいのにずっと持っていたものだから薄気味悪い愛着が付いてしまって、もう握りしめて付き合っていくしかない。何度試しても誰にも自分を感じることはない。似通った部分を、愛せる箇所を、許せる相違を。そうして異端なのは自分の方じゃないかと、自惚れと共に気付かされる。その違いや価値を越える程の情熱も愛も生憎持ち合わせていないのだ。これを手に入れない限り、さみしさは増していくし幸せにはなれない。

 

募ったさみしさはその上で寝るには不安定過ぎる。だから少しばかりの納得で落ち着かせたいのだ。そのさみしさにもちゃんと理由があるから、得るものは何かあるから探してごらんと、声に出して言って欲しい。こんな偏屈な考えを許して欲しい。然る後この僕に愛を。そんな安心があれば、また楽しい夢を見れる。心の内を落ち着かせるセオリーを探して、阿呆な僕はまた求め傷付くのだ。

疲れたなんて言えない

せっかく書いたものが全部消えちまいやがった。せっかくだから要点だけさらさらっと思い出せるだけ思い出す。風呂上がりの火照った頭とベッドに溶ける身体でもそれくらいは出来てほしい。「疲れた」なんて言うのもおこがましい生活の中で、僕はそう学ぶ。人間上手いことできているなぁと感じるのだけど、どうやら痛みからしか学べないのだ。得て進み挑み、叶わず折られることでしか人は学べないのだ。学んで今日の端から明日の淵へしがみついていかないと、きっと道を見失ってしまう。バイト中に常連の御仁に言われた。

 

「今がきっと役に立つ時が来る。信じて続けなさい。」

 

僕の身の上を知っての言葉なのか、そうでなくとも、この一言で救われる思いがした。赦される訳でもなく裏切った事実が消える訳でもない。それでも、心にかかっていた靄と抱えていた憎しみが、たしかに和らいだ。僕は信じている。折られても立ち直れると信じている。腐らず前を向いていれば、栄光に手が届くと信じている。悲しいことはあるけれど、そればっかりじゃない。気づかないだけで少し目をやれば、今のこの生活の僕にも価値があるんじゃないかって、そう思わせてくれた一言だった。バイトに染まる生活でも、こんな僕を慕ってくれて頼りにしてくれる人がいて、身に余る程の光栄と幸せじゃないか。みんなが好きで好きでたまらない。その貰った活力でまた挑んでいけばいいじゃないか。挑んでダメでもまた元気を貰えるんだから。弱音は吐くかもしれないけれど、それはきっとすぐ過ぎ去る冬の風。春を思えば僕は腐らず前を向ける。その繰り返しで構わない。希望と憂い、そのループの中で生き続けることだ。

 

チョコレートは美味しい。今はそれが幸せだ。

自由に縛られて

陽の光さえ憎く思える程後ろ向きになった時、僕はブログを書く。こんなこと書いたってどうにもならないことは百も承知なのに、己の文を駄文と罵りながら軌跡を残す。結局のところ、僕はあれから何も変わっちゃいないのだ。前に進んでいた気になっていただけで、決して自分が許された訳じゃない。いくら楽しい時を過ごそうと過去が消える訳じゃない。本質のところで人は変わらないという事を最近骨の髄から思い知らされる。人に頼ろう、すがろうとしても、邪魔をするのは自分の目にしか映らない吹けば飛ぶ程ちっぽけなプライド。そのプライドが、決死の思いでここまで育んできたプライドが、また崩れ去るのが怖いのかもしれない。そうして僕はいつまでも動けないまま、過去に縛られて今を浪費し未来に思いを馳せるのだ(そんな風で未来が訪れる訳がないのは知っている)。忌々しい我が二十余年の足跡よ。

 

このままでは自分が自分でなくなってしまう。自分がなんなのかわからなくなる程に、思い詰め嫌悪し後悔し懺悔し赦されるのを待っている。もう今までどんな風に笑っていたのかわからないのだ。何を楽しみ何を話し何を愛したのか、それもわからずただひとつ言えるのは、これから先、また再びあの頃のように笑い合えることは決してないのだろうという悲観的な確信だけだ。僕がこのままでいる限り、比べ羨望し、しかしそれを活力にすることもせずに生きていくだけ。どこに希望を持てと言うのか。「次こそはやってやりたい」、もちろんその気持ちは充全と満ち満ちているのだけれど、それでも「やったけどできなかった」杭が鈍く深く心を刺したままであるので、高めた気持ちも少しの綻びで一気に決壊してしまう。その気持ちは悔しさの渦になって目から流れ落ちてくるのだからまた困ったものだ。落ちた一雫が詩か花にでもなればまだ救いがあるのだけど、それほどの才能はどうやら無いようで僕をさらに落ち込ませる。

 

焦りはある。誰かにずっと見られているような、じっと張り付く焦燥感。その誰かの正体もきっと僕は知っている。知っているのだけど、どんなに引き離そうとしても決して逃れられない。打ち克つしかないのだ。立ち向かい明るみに引きずり出し拳が裂けるまでお見舞いしてやるしかないのだ。血を吐く思いだ。

 

決断して良い方へ転がったことが今までにあっただろうか。思い返せばそんなことはなかったから、今回もまたそのひとつが積み上がって終いか。それともまだ耐える時なのか。導きが欲しい。

プリンのようせい

僕は夜毎夢を見る。当てもなくすることもなく限りなくゼロに近い生産性の中で、いつか自分は幸福になるだろうと夢を見る。人並みに働き人と出会い喜び失望し許し許され愛に生きようと夢を見る。言葉にすれば大げさか。身の程しらずか甘えか判断はつかないが、現状から脱却できれば多少は幸せになれると確信している。身体一つ動かす根気と思い一つ覚悟するきっかけがあれば、幸せは訪れる。すぐにではなくても、幸福への道を歩むことができる。前へ進める。そんな考えを夜毎繰り返してはやっぱり根気と覚悟、どちらかもしくは両方の車輪が軋むか外れるかするので、そのまま朝を迎えベッドから起き上がれずにまた何も産まない日々が続く。一体何日めだコノヤロウ!意気地無し!ヘタレ!小魚!馬の骨!

 

「最近どうにも集中力がなくて物事が続かない」、ということをブログに書こうするのだけれどなにぶん集中力がないのでやっぱり書かない。今こうして文字を打っているのは、もしここで最後まで書けたなら、明日はきっとあの娘から電話がかかってくるだろうという思し召しが僕から告げられたからだ。だから今日はなんとしても……あぁえっと何が書きたかったのか。なんだ思いの丈でも綴ればいいか、けれど生憎それは難しくて、誰も得をしないし僕に虚しさを残し枕を少し濡らすだけなのでやめる。そもそも言葉にできるほど確立した想いでもないのだ。今の僕には資格がない。無敵の予感と成長を感じさせる言葉だ。

 

そうだった。僕には資格がないのだ。何をするにしても舞台というものがある。今の僕にはそこに上がるだけの資格がない。発言ひとつ、行動ひとつ取ってもみても、それを自分で許すだけの資格がない。それを身の程を知らぬ振る舞いと、自惚れて自分から舞台に上がることを良しとしないのだ(許可があれば別だけど)。考え過ぎかもしれないがこればっかりは性格だ。あぁ、恋をできないのがこんなにも辛いとは!現状最も辛いのは、恋ができずこの胸を躍らすことがないことかもしれない。

 

結局僕は過去に囚われたままなのだ。生きる為には(恋をするには)前を向かなければならないのに。いや、生きることには前向きだから、その視線の先へ歩を進めなければならない。意識は変わっているのだから後は過去を断ち行動するだけだ。それでもふとした時に思い出す。暗く荒んだ自棄を帯びた思いが湧き上がる。僕の脚を痺れさせる忌々しい自意識だ。あまりにも脚を止められるのが鬱陶しいので、最近は妖精に助言してもらうことにしている。「これはもう終わったことですヨー」と教えてくれる良い妖精。もとい明るいプラスの自意識だ。

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プリンの上に乗っている。好きなものは甘いものと粋。

 

この妖精のおかげで少しずつ進んでいこうと思える。それが自分の幸福だということをはっきりとそう感じるのだ。(自分を含めた)たくさんの人に助けられてここにいる。そろそろ勇気を示していく頃じゃないか?本音を言えば、道ついでにきっと見つかる恋もあるだろう。

 

早く雨があがってほしい。僕は太陽の夢を見る。

恋をするなら金曜日

金曜日は良い。それが夜なら特に良い。さらに夏だと特に良い。週末という開放感に夜という高揚、夏というシチュエーション、そこに素敵な相手を加えれば、それだけで大切な思い出ができる。トマトスライスとモッツァレラにオリーブオイルをかけた様に完璧だ。恋をするなら金曜日。それは恋のはじまりの前提としてあるべきだ。高らかに提唱したい。この世の全ての一歩を踏み出す勇気を持て余している皆さん!恋をするなら金曜日!

 

はじまりには何か特別なものを持たせたい。後に今を振り返った時に、スペシャルな気分になる様に。2人の馴れ初めを話す時に、「あそこからはじまったんだよね」と言える様に。金曜日が一番だがそれが難しいなら、例えば休みが月火の人とか度重なる労働で曜日の概念が消失している人とか、そういう人達はまた何か別のはじまりを持って欲しい。「はじまりは夕方のコメディを観ている時にかかってきた電話だったよね。」「はじまりは波の音を聴いている時だったよね。あの時魚が跳ねたんだよね。」2人だけの特別なはじまりを。恋だけに言ったことじゃない。はじまりの特別さが人を次の高みへ連れて行ってくれる。何気ない優しさに気付かせてくれる。認め許す尊さをいつまでも心の中心に置いてくれる。生きるのに必要なのは、いつだってそういう特別さだった。

 

はじまりに特別なものを持たせたい。だからまだはじまっていない人は、生活の全てがその特別になり得るのだ。なんとワクワクに溢れた毎日だろう!注意深くならなければいけない。はじまりを掴んだ時に特別さを見逃さないように。「晴れなのに雷が鳴っていた日」かもしれない。「衣替えしてお気に入りの赤いシャツを着た日」かもしれない。「普段は食べないコーヒーゼリーを買った時」かもしれない。見方を変えれば、生活ははじまりに溢れている。

 

だから恋をするなら金曜日なのだ。

 

そうこうしている内に夜は更け土曜になってしまう。夏も終わりだ。涼しい風が吹いている。寝苦しさは暑さのせいだけじゃなかった。また金曜日が終わる。橋を渡り池を歩いても駄目だった。海を見れば魚が跳ねる。次はいつ予感を見るのだろう。僕は言葉を失くしてしまったらしいから、言葉に意味を持たせる資格がないと思うから、はじまりを探すに甘んじてその先を見ることができない。でもこうして意味など無くても何かを残すことが出来た日だけ、なぜかよく眠れるのだ。

 

一番最初は「お別れ」だった。