Right to Light

陽ととなり

自由に縛られて

陽の光さえ憎く思える程後ろ向きになった時、僕はブログを書く。こんなこと書いたってどうにもならないことは百も承知なのに、己の文を駄文と罵りながら軌跡を残す。結局のところ、僕はあれから何も変わっちゃいないのだ。前に進んでいた気になっていただけで、決して自分が許された訳じゃない。いくら楽しい時を過ごそうと過去が消える訳じゃない。本質のところで人は変わらないという事を最近骨の髄から思い知らされる。人に頼ろう、すがろうとしても、邪魔をするのは自分の目にしか映らない吹けば飛ぶ程ちっぽけなプライド。そのプライドが、決死の思いでここまで育んできたプライドが、また崩れ去るのが怖いのかもしれない。そうして僕はいつまでも動けないまま、過去に縛られて今を浪費し未来に思いを馳せるのだ(そんな風で未来が訪れる訳がないのは知っている)。忌々しい我が二十余年の足跡よ。

 

このままでは自分が自分でなくなってしまう。自分がなんなのかわからなくなる程に、思い詰め嫌悪し後悔し懺悔し赦されるのを待っている。もう今までどんな風に笑っていたのかわからないのだ。何を楽しみ何を話し何を愛したのか、それもわからずただひとつ言えるのは、これから先、また再びあの頃のように笑い合えることは決してないのだろうという悲観的な確信だけだ。僕がこのままでいる限り、比べ羨望し、しかしそれを活力にすることもせずに生きていくだけ。どこに希望を持てと言うのか。「次こそはやってやりたい」、もちろんその気持ちは充全と満ち満ちているのだけれど、それでも「やったけどできなかった」杭が鈍く深く心を刺したままであるので、高めた気持ちも少しの綻びで一気に決壊してしまう。その気持ちは悔しさの渦になって目から流れ落ちてくるのだからまた困ったものだ。落ちた一雫が詩か花にでもなればまだ救いがあるのだけど、それほどの才能はどうやら無いようで僕をさらに落ち込ませる。

 

焦りはある。誰かにずっと見られているような、じっと張り付く焦燥感。その誰かの正体もきっと僕は知っている。知っているのだけど、どんなに引き離そうとしても決して逃れられない。打ち克つしかないのだ。立ち向かい明るみに引きずり出し拳が裂けるまでお見舞いしてやるしかないのだ。血を吐く思いだ。

 

決断して良い方へ転がったことが今までにあっただろうか。思い返せばそんなことはなかったから、今回もまたそのひとつが積み上がって終いか。それともまだ耐える時なのか。導きが欲しい。