Right to Light

陽ととなり

纏ういろは

悲しいことに、どうやら僕は幸福に慣れていないらしい。気に病むことを吐き出したり鬱憤を晴らしたりするためならいくらでも言葉が出てくるのに、今の気持ちはどうにもうまく言い表せなくて、枕に頭を打ち付け落ち着かず用を足す用も無いのにトイレに立ち挙句考えることを放棄する。放棄したい、なのにそうはいかない。この気持ちを明日に息吹く風にしたい、その一心で慣れない感情に戸惑いながら本心に急かされ書いている。首は疼き指は思い通りに動かない。もはや禁断症状のそれだ。友情の過剰摂取、幸福のオーバードーズだ。難しい。

 

難しい。僕はもっと自分は素直な人間だと思っていた。口が悪かったり軽口が出たりするのも、別に悪意があったり気取っている訳じゃない、すこし自分に正直なだけ、そう思っていた。なのになんだこの体たらくは。いざ己の幸せを吐き出してみよとその己に言われれば、軽口は重力を思い出し意識は散漫注意は暴落しせっせと着飾った語彙は没落、脳内はスラム街と化した。吹きすさぶは新風どころではない。砂埃を捲き上る灰色を纏った風である。あまりの空白期間に喜ぶことを忘れてしまったらしい。哀しみの色は暗い色。暗く青く、足元に広がる重たい水の色。喜びの色はどんな色だったか。長いインターバルだとしても答えは今にある。今の色が喜びの色。幸せの色。自分は間違っていなかったんだという正しさの白、優しく頬を撫でる慕うべき亜麻色、暗い水に光をくれる友情の柑子色。あぁそうだった。今までだっていつだって、楽しい時はその中に飛び込みその時々の色を纏って自分になっていた。溺れる時だってあったけど、かといって暗い色を否定しない、日に日に移り変わる自分の色を楽しんでいた。それが僕の生き方だった。

 

新生活に期待はしていない。不安定な期待はいつだって予想の外で裏切られ心に雨を降らす。だから期待はしない。だって裏切られることもないから。理想を捨て絶望を遠ざける、理想など存在しないという覚悟が絶望を吹き飛ばしてくれる。その烈風こそが、意思を滾らせる赤光を纏った風だと感じる。いつだってはじまりは自分を信じる白だった。しかと踏みしめ赤い風の吹く方へ進めばいいのだ。暗く色を見失いそうな時は、今日を思い出すといい。一縷と言わず日輪のように、その柑子色であるべき心を照らしてくれるから。疲れ病み自分の色を忘れた時は、今日を思い出すといい。優しく焦がれる亜麻色の声が、何度でも染め直してくれるから。

 

自分が残照になれたかはわからない。だけどそれとは別に、僕もまた照らされていたのだ。それに気付けたことが嬉しくて嬉しくてたまらない。その色を纏って歩けることが、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。

4月の残照

まだ少し先の話になりますが、来月から再び働くこととなりました。転職活動(っぽいもの)を始めてから年を跨いで4ヶ月、夏に退職してからの沈黙期を合わせれば8ヶ月の時間が経ちました。両親をはじめとする家族、僕を腐らせず手本になってくれた友人、出戻りを快く受け入れてくれたバイト先、もちろん彼等以外にも、特別な言葉はなくともその大海のように広い心の片隅で、美しい離れ小島の椰子の実程に僕を気にかけてくださった皆様、恩義を挙げればキリがなく言葉にできない想いでいっぱいです。お礼に初任給でココナッツジュースを奢ります。周囲への感謝の気持ちはいっぱいだけど、僕自身で言えばそれほどでもないのが正直な感想です。昨今珍しくないと言われているとはいえ、転職なんて誰もがみんなする訳ではないし、そういう意味では若い内の良い経験になったのかなぁとぼんやり思う程度の感慨。夏からで恐らく3年分は流しストックが尽きたのか、連絡の電話を頂いた時も涙は出なかった。収入の目処が立って良かったとホッとしている。そんな感慨。

 

とにかくこれまでは光陰矢の如しとはこのことかと思える短さだった。そして実に明るくそれでいて虚しく、身の振り方を考えさせられる時間だった。"貧すれば鈍する"のとおり、月々に減っていく通帳の数字を見る度に気が滅入り心は磨り減り満たされる欲も持てないまま春を迎えるのかと絶望に片足を突っ込んでいた一方で、あぁこのままでもなんとかやっていけるじゃないかというある意味で甘い考えが無かった訳ではない。フリーターだから出来る事許される事、フリーターだから出来ない事自分で許せない事、本当に沢山あった。ただ何度も言っていたようにお金もいずれは無くなるし僕の幸せはこの先にあると信じているので萎える気力を無理矢理叩き上げていたような日々だった。本当に、腐らずよくやったと思う。しかしその一方で、僕は努力をしたとは思わない。別に今回に限らず、今までの義務教育高等教育部活大学生活就活どの場に於いても、自分で「努力したなぁ」と感じたことはない。テストに試合、発表会と実力を試される機会でも、手を抜いたって(客観的に)優秀な成績になることは多々あったし、逆に力を入れても望む結果が出なかったことももちろんある。自分で納得いくだけの努力をしその努力に見合う納得した結果を得たことがない。「まだ本気を出してないだけ」なんて言えば体裁は多少見繕えるが、複雑さは心に靄をかける。スッキリしない。何をしたって自分が本気を出しているかわからないからだ。今回だって、それに見合う努力をしたかと聞かれて首を縦に振る気は無い。涙が出ない理由はそこにあるのかもしれない。みんなそんなものなのだろうか。僕が知らないだけで、そういう風に世界は回っているのだろうか。今までひっかかっていた考えが今回の転職をきっかけに何か動くかと思っていたけれど特にそんなことはなかった。

 

"しかし"なのか"だから"なのかは不明だが、とにかくこれからだと思うのだ。難儀なことに、いくら事前に手を尽くそうと、選ぶ道が最良で最善なものかは神様にしかわからない。なら人が出来ることは、稚拙浅学な僕が出来ることはきっと、選んだ道が最良で最善になるように振舞っていくことだけ、それだけだ。月並みな言葉ではあるがひとつの真理だと僕は思う。(前職は最良を尽くそうとして潰れたがそれでも真理だ。やり方が間違っていただけで、考えは間違っていない。)とりあえずまずは誰の為と気負わずに、自分とお金の為と働いてみる、人を気にかける余裕はその後だ。苦しいこともあるが安心だけは忘れないで欲しい。僕は、栄光は俺にあると信じて疑わない。その自信からくる安心を、どうか心に置いておいて。どうしても苦しい時はまたここでネタにすれば良い。皮肉なことに、経験的にその方が好きな文章が書けると思うしよく眠れる。それで昇華してくれ。思うに、一度の挫折から立ち直れることなんてそうそうになくて、折れた心は簡単には戻らない。次だって何があるかわかったものではないのだ。だから祈っていて欲しい。期待などせずに、ただ立ち直れることを。一度折れた人間がどこまで出来るのか、僕に暇な時間をくれるなら、その時間潰し程度に祈っていて欲しい。

 

後1ヶ月、なんとかフリーター生活を楽しむとする。退職は逃げと言われるかもしれないが、逃げた先は喜怒哀楽溢れる素晴らしい人間味の世界だった。月一で遊べたし愚痴を零してお酒も飲めた。素敵な後輩達とご飯も行けた。そんな後輩達の成人も卒業も内定もお祝い出来た。趣味にだって打ち込めたし家族と旅行も行けた。それだけで、何かと心を擦り減らされた転職活動をチャラにしてお釣りがくる程のしあわせだったと自信を持って言える。逃げるのだって悪くない。逃げた先が楽しければそれで勝ちだ。逆に楽しい先に逃げて逃げて逃げ続けて、楽しいまま死ねればそれで勝ちだ。

 

改めてありがたさでいっぱいだ。沈み切って暗く沈黙していた僕にもう一度舞台を用意してくれた。光を失っていた僕に輝くチャンスをくれた。だから今度は僕が照らす存在になりたい。恩義はこうして廻っていくと思うから。

 

まずはあと1ヶ月、恐れ多くもこの残照を。

失恋はつらい

お嬢様になりたい。なりたくない?その気はなくとも優雅で品があって周りのオスどもを色香に迷わせるような、そんなお嬢様になりたくないか?そうすれば少なくとも、今抱える曖昧な恋煩いも無くなるんじゃないだろうか。自然に"曖昧な"と付けてしまったけど、こうしたのは僕自身がその恋を認めたくないことの表れなのか。今まで成就した恋愛の方がはるかに少なくあってない霞のような恋愛経験の中で学んだことは、なにはともかく「失恋はつらい」という事実だ。あまりに魅力的な世の女性達の色香に迷わされ早幾年、挑めども挑めども悉く空振りし擦り玉から学びもせず絶好球は何度見逃したことか、打率が1割を切り遂にたどり着いた先は「傷つくのが嫌ならハナから好きにならなければいい」という、現実という名のバッターボックスからの逃避であった。この歪な思考が僕の恋心に曖昧さをもたらしている。ベンチからチームメイトを見てみれば、来る球来る球すべてをスパンスパンと打ち返す色男に、絞りに絞った狙い球を磨きに磨いたスイングで鋭く捌く仕事人、気取らず飄々とそれでいてしっかり結果を持っていく優男、どれも華やかで男らしくかっこいいじゃないか。僕はまたバッターボックスに立てるのだろうか。

 

ふとこのままの生活も悪くないんじゃないかなと思う時がある。居場所があり友達がいて遊びもロマンスもあるこの生活が。嫉妬と羨望で夜も眠れなくなるようなこの生活が。でもはっきりわかっている、それでは僕は幸せにはなれない。僕の求める理想像は、今の生活の先にある。幼い頃から青春を通して描いてきた素敵な大人に僕はなりたい。

 

あぁ常々、情動は人を生かすというものだ。昼は恋を泳ぎ夜は嫉妬に溺れ、一方で底が見えるほど浅い自分の甲斐性を呪ったりそれでもなんとかもがいてみたり、うまくいくことなんてほとんどないのだけど、それでもたまにあの娘が笑ってくれればそれだけに満足して眠りにつけたり。そんなことを繰り返していたら、また少し、バットが握れるような気がしてくる。今度は見てろよと不敵に笑って、次のスイングを考えるのだ。望む生き方をしたいなら、傷つくのは御免だとか言ってられない。そんな甘えはそれこそベンチに置いてくるべきなのだ。

 

君とはとても楽しい時間だったよ。これからもどうぞよろしく。そんな風に傷つく心を隠さないのも、また大人ならではの恋なのかもしれない。

今日の幸せを許して

雨の中を歩く。傘が邪魔だなぁとか足元が悪いなぁとか、そんなことばかりが障害ではなくて、きっともっと晴らしたいものが溜まっているからこそ、わざわざ雨の中を僕は歩く。焼肉の煙の香り、連なるスーツの人、帰りの電車でを待つホーム、そこかしこに昔の僕の面影を見る。少し前は自分もそこに存在していたのに、もう今ではすっかり変わってしまったなぁ、また戻ることができるのかなぁなんて不思議な懐かしさを覚えたり。その面影に想起されることはどちらかと言えば辛く切ないものなんだけど。振り払えると思っているのなら少し考えが甘いのかもしれない。孤独との付き合い方をアップデートしていく必要がある。切なさと付き合わなければならないからこそ僕は歩くのかもしれない。暗く深く自分を見つめて雨に唄えば、その時だけでも孤高になれる。気高く振る舞える気がする。その時だけは、不甲斐ない自分から目を反らせる。それが許される気がする。

 

いつだって自分はここにいていいのかと問い続けてきた。自分で作った居場所でもそれがあまりにも不自然な不用意な気がして安心できないから。そもそも落ち着ける場所が欲しいのかすらよくわかっていないのに、満足できるはずがないのに。ないものねだりが度を過ぎて、自分を責めることしかできない。もっといろんな選択ができるのだろうけど、どれもあまりにも自分から乖離しているように見えてならない。はぁ、本当にどうしようもない。未来を切り開く覚悟すら持てない今に、文句を叫ぶ資格はない。もっともっと、毎日が楽しいことで溢れていたらいいのに。なんの不安もしがらみもなく、ひとりひとりが孤独と触れ合いの中で個性を認め合えればいいのに。でもこれ、現実なのよね。

 

今日みたいに楽しい日がずっと続けばよかったのに。そう願ってやまないのはまた明日がくると孤独に放り込まれてしまうからだ。ありとあらゆる場所で試され己を磨き、それでも満たされなければ努力不足だと即座に切り捨てられるからだ。でもこれが、現実なのよね。

 

暗くなるつもりはなかったのになぁと思ってももう遅いみたい。でももう少しだけ、太陽が昇るまでは、夢を見させてくれ。過ぎ去った幸せに浸らせてくれ。

さみしさのセオリー

楽しかったことがあった時程それを形にして残そうと思っていたけど、最近その形の作り方を忘れてしまってもったいない気持ちになる。楽しい時間を過ごした分だけまた孤独になる。人と話した分だけ自分と話さなければならない。向き合わなくてはならない。その楽しさの余韻に浸ったまま眠りにつければまた続く夢を見れるのに、これはもう"サガ"である。さみしさが募り過ぎた者の性分であるから変えようとしても染み付いていて拭えるものではない。僕は僕のまま、変わることもなく憧れ傷付き偶に身の程知らずの恋心を抱く。抱いているその気持ちに身を切られているといるのに、学びもせず痛みに耐えるのだ。負けるはずがない磨き続けてきた自己愛すらも、その時になれば劣っていることを目にしてしまうのだ。何者にもなれないことは解っている、だから自分になるしかないのに、その自分すら……ここまでくるとその出来事すら本当に楽しめているのかと疑問符を打ってしまうのが悲しい。目指すべき姿を失った人間はいったいどこへ向かうのか、道導すら掴めないまま楽しさは夜に浮かんでそのまま黒い空に溶ける。

 

知って欲しい部分と知られたくない部分、知りたい部分と知りたくない部分、その線引きに躍起になっている内に時は過ぎ夜は更け結局何も生まれることなく終わる。手元にあるのは元から持っていた表面ばかりピカピカの中身の無い偶像だ。その偶像で何をしようとしていたのかも今ではもうわからない。捨ててしまえばいいのにずっと持っていたものだから薄気味悪い愛着が付いてしまって、もう握りしめて付き合っていくしかない。何度試しても誰にも自分を感じることはない。似通った部分を、愛せる箇所を、許せる相違を。そうして異端なのは自分の方じゃないかと、自惚れと共に気付かされる。その違いや価値を越える程の情熱も愛も生憎持ち合わせていないのだ。これを手に入れない限り、さみしさは増していくし幸せにはなれない。

 

募ったさみしさはその上で寝るには不安定過ぎる。だから少しばかりの納得で落ち着かせたいのだ。そのさみしさにもちゃんと理由があるから、得るものは何かあるから探してごらんと、声に出して言って欲しい。こんな偏屈な考えを許して欲しい。然る後この僕に愛を。そんな安心があれば、また楽しい夢を見れる。心の内を落ち着かせるセオリーを探して、阿呆な僕はまた求め傷付くのだ。

疲れたなんて言えない

せっかく書いたものが全部消えちまいやがった。せっかくだから要点だけさらさらっと思い出せるだけ思い出す。風呂上がりの火照った頭とベッドに溶ける身体でもそれくらいは出来てほしい。「疲れた」なんて言うのもおこがましい生活の中で、僕はそう学ぶ。人間上手いことできているなぁと感じるのだけど、どうやら痛みからしか学べないのだ。得て進み挑み、叶わず折られることでしか人は学べないのだ。学んで今日の端から明日の淵へしがみついていかないと、きっと道を見失ってしまう。バイト中に常連の御仁に言われた。

 

「今がきっと役に立つ時が来る。信じて続けなさい。」

 

僕の身の上を知っての言葉なのか、そうでなくとも、この一言で救われる思いがした。赦される訳でもなく裏切った事実が消える訳でもない。それでも、心にかかっていた靄と抱えていた憎しみが、たしかに和らいだ。僕は信じている。折られても立ち直れると信じている。腐らず前を向いていれば、栄光に手が届くと信じている。悲しいことはあるけれど、そればっかりじゃない。気づかないだけで少し目をやれば、今のこの生活の僕にも価値があるんじゃないかって、そう思わせてくれた一言だった。バイトに染まる生活でも、こんな僕を慕ってくれて頼りにしてくれる人がいて、身に余る程の光栄と幸せじゃないか。みんなが好きで好きでたまらない。その貰った活力でまた挑んでいけばいいじゃないか。挑んでダメでもまた元気を貰えるんだから。弱音は吐くかもしれないけれど、それはきっとすぐ過ぎ去る冬の風。春を思えば僕は腐らず前を向ける。その繰り返しで構わない。希望と憂い、そのループの中で生き続けることだ。

 

チョコレートは美味しい。今はそれが幸せだ。

自由に縛られて

陽の光さえ憎く思える程後ろ向きになった時、僕はブログを書く。こんなこと書いたってどうにもならないことは百も承知なのに、己の文を駄文と罵りながら軌跡を残す。結局のところ、僕はあれから何も変わっちゃいないのだ。前に進んでいた気になっていただけで、決して自分が許された訳じゃない。いくら楽しい時を過ごそうと過去が消える訳じゃない。本質のところで人は変わらないという事を最近骨の髄から思い知らされる。人に頼ろう、すがろうとしても、邪魔をするのは自分の目にしか映らない吹けば飛ぶ程ちっぽけなプライド。そのプライドが、決死の思いでここまで育んできたプライドが、また崩れ去るのが怖いのかもしれない。そうして僕はいつまでも動けないまま、過去に縛られて今を浪費し未来に思いを馳せるのだ(そんな風で未来が訪れる訳がないのは知っている)。忌々しい我が二十余年の足跡よ。

 

このままでは自分が自分でなくなってしまう。自分がなんなのかわからなくなる程に、思い詰め嫌悪し後悔し懺悔し赦されるのを待っている。もう今までどんな風に笑っていたのかわからないのだ。何を楽しみ何を話し何を愛したのか、それもわからずただひとつ言えるのは、これから先、また再びあの頃のように笑い合えることは決してないのだろうという悲観的な確信だけだ。僕がこのままでいる限り、比べ羨望し、しかしそれを活力にすることもせずに生きていくだけ。どこに希望を持てと言うのか。「次こそはやってやりたい」、もちろんその気持ちは充全と満ち満ちているのだけれど、それでも「やったけどできなかった」杭が鈍く深く心を刺したままであるので、高めた気持ちも少しの綻びで一気に決壊してしまう。その気持ちは悔しさの渦になって目から流れ落ちてくるのだからまた困ったものだ。落ちた一雫が詩か花にでもなればまだ救いがあるのだけど、それほどの才能はどうやら無いようで僕をさらに落ち込ませる。

 

焦りはある。誰かにずっと見られているような、じっと張り付く焦燥感。その誰かの正体もきっと僕は知っている。知っているのだけど、どんなに引き離そうとしても決して逃れられない。打ち克つしかないのだ。立ち向かい明るみに引きずり出し拳が裂けるまでお見舞いしてやるしかないのだ。血を吐く思いだ。

 

決断して良い方へ転がったことが今までにあっただろうか。思い返せばそんなことはなかったから、今回もまたそのひとつが積み上がって終いか。それともまだ耐える時なのか。導きが欲しい。