Right to Light

陽に当たっていたい22歳

疲れたなんて言えない

せっかく書いたものが全部消えちまいやがった。せっかくだから要点だけさらさらっと思い出せるだけ思い出す。風呂上がりの火照った頭とベッドに溶ける身体でもそれくらいは出来てほしい。「疲れた」なんて言うのもおこがましい生活の中で、僕はそう学ぶ。人間上手いことできているなぁと感じるのだけど、どうやら痛みからしか学べないのだ。得て進み挑み、叶わず折られることでしか人は学べないのだ。学んで今日の端から明日の淵へしがみついていかないと、きっと道を見失ってしまう。バイト中に常連の御仁に言われた。

 

「今がきっと役に立つ時が来る。信じて続けなさい。」

 

僕の身の上を知っての言葉なのか、そうでなくとも、この一言で救われる思いがした。赦される訳でもなく裏切った事実が消える訳でもない。それでも、心にかかっていた靄と抱えていた憎しみが、たしかに和らいだ。僕は信じている。折られても立ち直れると信じている。腐らず前を向いていれば、栄光に手が届くと信じている。悲しいことはあるけれど、そればっかりじゃない。気づかないだけで少し目をやれば、今のこの生活の僕にも価値があるんじゃないかって、そう思わせてくれた一言だった。バイトに染まる生活でも、こんな僕を慕ってくれて頼りにしてくれる人がいて、身に余る程の光栄と幸せじゃないか。みんなが好きで好きでたまらない。その貰った活力でまた挑んでいけばいいじゃないか。挑んでダメでもまた元気を貰えるんだから。弱音は吐くかもしれないけれど、それはきっとすぐ過ぎ去る冬の風。春を思えば僕は腐らず前を向ける。その繰り返しで構わない。希望と憂い、そのループの中で生き続けることだ。

 

チョコレートは美味しい。今はそれが幸せだ。

自由に縛られて

陽の光さえ憎く思える程後ろ向きになった時、僕はブログを書く。こんなこと書いたってどうにもならないことは百も承知なのに、己の文を駄文と罵りながら軌跡を残す。結局のところ、僕はあれから何も変わっちゃいないのだ。前に進んでいた気になっていただけで、決して自分が許された訳じゃない。いくら楽しい時を過ごそうと過去が消える訳じゃない。本質のところで人は変わらないという事を最近骨の髄から思い知らされる。人に頼ろう、すがろうとしても、邪魔をするのは自分の目にしか映らない吹けば飛ぶ程ちっぽけなプライド。そのプライドが、決死の思いでここまで育んできたプライドが、また崩れ去るのが怖いのかもしれない。そうして僕はいつまでも動けないまま、過去に縛られて今を浪費し未来に思いを馳せるのだ(そんな風で未来が訪れる訳がないのは知っている)。忌々しい我が二十余年の足跡よ。

 

このままでは自分が自分でなくなってしまう。自分がなんなのかわからなくなる程に、思い詰め嫌悪し後悔し懺悔し赦されるのを待っている。もう今までどんな風に笑っていたのかわからないのだ。何を楽しみ何を話し何を愛したのか、それもわからずただひとつ言えるのは、これから先、また再びあの頃のように笑い合えることは決してないのだろうという悲観的な確信だけだ。僕がこのままでいる限り、比べ羨望し、しかしそれを活力にすることもせずに生きていくだけ。どこに希望を持てと言うのか。「次こそはやってやりたい」、もちろんその気持ちは充全と満ち満ちているのだけれど、それでも「やったけどできなかった」杭が鈍く深く心を刺したままであるので、高めた気持ちも少しの綻びで一気に決壊してしまう。その気持ちは悔しさの渦になって目から流れ落ちてくるのだからまた困ったものだ。落ちた一雫が詩か花にでもなればまだ救いがあるのだけど、それほどの才能はどうやら無いようで僕をさらに落ち込ませる。

 

焦りはある。誰かにずっと見られているような、じっと張り付く焦燥感。その誰かの正体もきっと僕は知っている。知っているのだけど、どんなに引き離そうとしても決して逃れられない。打ち克つしかないのだ。立ち向かい明るみに引きずり出し拳が裂けるまでお見舞いしてやるしかないのだ。血を吐く思いだ。

 

決断して良い方へ転がったことが今までにあっただろうか。思い返せばそんなことはなかったから、今回もまたそのひとつが積み上がって終いか。それともまだ耐える時なのか。導きが欲しい。

プリンのようせい

僕は夜毎夢を見る。当てもなくすることもなく限りなくゼロに近い生産性の中で、いつか自分は幸福になるだろうと夢を見る。人並みに働き人と出会い喜び失望し許し許され愛に生きようと夢を見る。言葉にすれば大げさか。身の程しらずか甘えか判断はつかないが、現状から脱却できれば多少は幸せになれると確信している。身体一つ動かす根気と思い一つ覚悟するきっかけがあれば、幸せは訪れる。すぐにではなくても、幸福への道を歩むことができる。前へ進める。そんな考えを夜毎繰り返してはやっぱり根気と覚悟、どちらかもしくは両方の車輪が軋むか外れるかするので、そのまま朝を迎えベッドから起き上がれずにまた何も産まない日々が続く。一体何日めだコノヤロウ!意気地無し!ヘタレ!小魚!馬の骨!

 

「最近どうにも集中力がなくて物事が続かない」、ということをブログに書こうするのだけれどなにぶん集中力がないのでやっぱり書かない。今こうして文字を打っているのは、もしここで最後まで書けたなら、明日はきっとあの娘から電話がかかってくるだろうという思し召しが僕から告げられたからだ。だから今日はなんとしても……あぁえっと何が書きたかったのか。なんだ思いの丈でも綴ればいいか、けれど生憎それは難しくて、誰も得をしないし僕に虚しさを残し枕を少し濡らすだけなのでやめる。そもそも言葉にできるほど確立した想いでもないのだ。今の僕には資格がない。無敵の予感と成長を感じさせる言葉だ。

 

そうだった。僕には資格がないのだ。何をするにしても舞台というものがある。今の僕にはそこに上がるだけの資格がない。発言ひとつ、行動ひとつ取ってもみても、それを自分で許すだけの資格がない。それを身の程を知らぬ振る舞いと、自惚れて自分から舞台に上がることを良しとしないのだ(許可があれば別だけど)。考え過ぎかもしれないがこればっかりは性格だ。あぁ、恋をできないのがこんなにも辛いとは!現状最も辛いのは、恋ができずこの胸を躍らすことがないことかもしれない。

 

結局僕は過去に囚われたままなのだ。生きる為には(恋をするには)前を向かなければならないのに。いや、生きることには前向きだから、その視線の先へ歩を進めなければならない。意識は変わっているのだから後は過去を断ち行動するだけだ。それでもふとした時に思い出す。暗く荒んだ自棄を帯びた思いが湧き上がる。僕の脚を痺れさせる忌々しい自意識だ。あまりにも脚を止められるのが鬱陶しいので、最近は妖精に助言してもらうことにしている。「これはもう終わったことですヨー」と教えてくれる良い妖精。もとい明るいプラスの自意識だ。

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プリンの上に乗っている。好きなものは甘いものと粋。

 

この妖精のおかげで少しずつ進んでいこうと思える。それが自分の幸福だということをはっきりとそう感じるのだ。(自分を含めた)たくさんの人に助けられてここにいる。そろそろ勇気を示していく頃じゃないか?本音を言えば、道ついでにきっと見つかる恋もあるだろう。

 

早く雨があがってほしい。僕は太陽の夢を見る。

恋をするなら金曜日

金曜日は良い。それが夜なら特に良い。さらに夏だと特に良い。週末という開放感に夜という高揚、夏というシチュエーション、そこに素敵な相手を加えれば、それだけで大切な思い出ができる。トマトスライスとモッツァレラにオリーブオイルをかけた様に完璧だ。恋をするなら金曜日。それは恋のはじまりの前提としてあるべきだ。高らかに提唱したい。この世の全ての一歩を踏み出す勇気を持て余している皆さん!恋をするなら金曜日!

 

はじまりには何か特別なものを持たせたい。後に今を振り返った時に、スペシャルな気分になる様に。2人の馴れ初めを話す時に、「あそこからはじまったんだよね」と言える様に。金曜日が一番だがそれが難しいなら、例えば休みが月火の人とか度重なる労働で曜日の概念が消失している人とか、そういう人達はまた何か別のはじまりを持って欲しい。「はじまりは夕方のコメディを観ている時にかかってきた電話だったよね。」「はじまりは波の音を聴いている時だったよね。あの時魚が跳ねたんだよね。」2人だけの特別なはじまりを。恋だけに言ったことじゃない。はじまりの特別さが人を次の高みへ連れて行ってくれる。何気ない優しさに気付かせてくれる。認め許す尊さをいつまでも心の中心に置いてくれる。生きるのに必要なのは、いつだってそういう特別さだった。

 

はじまりに特別なものを持たせたい。だからまだはじまっていない人は、生活の全てがその特別になり得るのだ。なんとワクワクに溢れた毎日だろう!注意深くならなければいけない。はじまりを掴んだ時に特別さを見逃さないように。「晴れなのに雷が鳴っていた日」かもしれない。「衣替えしてお気に入りの赤いシャツを着た日」かもしれない。「普段は食べないコーヒーゼリーを買った時」かもしれない。見方を変えれば、生活ははじまりに溢れている。

 

だから恋をするなら金曜日なのだ。

 

そうこうしている内に夜は更け土曜になってしまう。夏も終わりだ。涼しい風が吹いている。寝苦しさは暑さのせいだけじゃなかった。また金曜日が終わる。橋を渡り池を歩いても駄目だった。海を見れば魚が跳ねる。次はいつ予感を見るのだろう。僕は言葉を失くしてしまったらしいから、言葉に意味を持たせる資格がないと思うから、はじまりを探すに甘んじてその先を見ることができない。でもこうして意味など無くても何かを残すことが出来た日だけ、なぜかよく眠れるのだ。

 

一番最初は「お別れ」だった。

それでも、私は病んでる方が好きかもしれない

定期的に訳のわからないことを言える人間でありたいと思う。突拍子もなく意味もない、しかし頭に残るようなことを言うにはどうしたらよいか。まず本を読む。文章からそのエッセンスを吸収すれば何かしらの勢いはつくだろう。ただ僕にとって難しいのは「本を読む」という行為自体を最近しなくなってきたことだ。ただの文字ではない「読ませる為の文字」は今の生活にまったくなく、買った本は積まれていくばかり。ウェルテルはいつまでも苦悩しないしティファニーで朝食は食べれそうもない。こんなことじゃいけないなぁと思いつつも手はスマホに伸びる。まったく、いけないなぁ。

 

本を読むことはしなくても、今ある僕のユーモアでなんとか気分を保っているところだ。今までどんな風に笑って、また笑わせていたのかは思い出せないが、その場その場でなんとか明るくしようとしているところだ。でないと口から出る言葉は暗いものばかり。正直口を開けばその度に病みそうだ。暗くなるのは嫌だし周りにそんな風に思われるのも嫌だ。だから、今まで通りいて欲しい。寂しい時に少しだけ構ってくれ。人のことを考えるのを止めるのは駄目だ。自分の思考の中に他人を入れるからこその人間だ。それが誠実さだし人間らしさの一端だ。態度にムカついたり思い通りにならないことに失望したり、このことに気付いて久し振りに自分の人間らしさを取り戻した様な気がする。部屋はいつまでたっても片付かないしあの娘の態度はやっぱり変わらず僕はいつまでも特別になれそうにない。お金だってない。

 

落ち込むこともある。自分でも分かる程に気分の浮き沈みが激しいし、人によって態度も変わる。でも今はそれでいいと思ってるし面倒くさがられたとしても「すまんねははは」で、どうか許してくれ。

 

とにかく人間らしくいたいのだ。僕らしく今までのように。そのきっかけを少し手に入れたような気がする。このまま突き進んで行けば、僕はかつての栄光を取り戻しアイデンティティに溢れそれは血流に乗り全身を駆け巡る。身体と思考は活性化し足取り軽く街を歩き知己とロマンに満ちた名文を生み出すだろう。そして愛を知り愛に生き太陽と踊り月と歌う。なんと素晴らしいことだろうか!

 

それが生きるということだ。他人に揺さぶられその都度自分の中心を確かめる、それが僕の生き方なのかもしれない。友情に愛情、敬愛、承認欲求、恨みに妬み、感情に振り回され一喜一憂、それが良いと思う。感情がいつもフラットでいるより、その方が好きだと思う。

入った会社を4ヶ月で辞めた

なんてことはない。すべてはタイトルの通りである。人並みに苦労し掴んだ内定にこれからの人生の希望を見出していた頃から4ヶ月、僕は何をしていたのだろう。今はこうして自分でも分かる程の死んだ表情で文字を綴る。当時の感情とかは思い出すのも文字にするのも難しいし煩わしいので覚えている範囲で書く。「あの時ああしておけば!」「ここがダメだった!」は、もう他の所で書いてあるのでここでは省く。もちろん反省がない訳ではない。ただ、こういう事実があったのだと、自分が納得のいくまで残しておくことが今必要だと感じる。

 

4月、オリエンテーションで代表として決意表明をさせてもらった。組織の一員として努力しますとかご指導ご鞭撻をよろしくとか、そういう当たり障りのないことをスピーチした。実際その通りの意識を持ち合わせていたし代表に選ばれたことへの期待に応えなければという思いでいっぱいだった。スピーチは褒めてもらった。ますます頑張らなくては。自信はまさに決意として一層固く強まった。

 

その後配属が決まった。上司曰く新卒で一番ハードな部署だった。そこでの仕事が嫌だったとか辛かったとか、今となっては何の思いもない。ただそこで僕は精神的にやられた。誤解の無いように言うと、先輩はみなさんとても良い人で、人間関係に問題はなかった。と思う。一方で、片付かない仕事量、迫る締め切り、孤独さと疎外感(これは僕が勝手に感じていただけかもしれないが)、とにかく、中高大と積み上げてきた僕の自信と決意表明の時に持ち合わせていたやる気をすり潰すには充分なストレスと疲労だった。朝早く家を出て夜遅くに帰る。母は寝ずに夕食を用意していてくれたし本当に有り難かった。しかしそれもいつもではなく、自然家族と関わる時間は減り、風呂と寝る為に家に帰る生活になっていった。家に着けば風呂に入りご飯を食べそのまま眠る。そして朝になればまた家を出る。気分を切り替えるヒマもなく日々が過ぎて行った。社会人とはこういうものだと自分を納得させている一方で、この生活がこれから続くことへの激しい拒絶の思いが常に頭に渦巻いていた。そして2ヶ月経ったある時に、職場に入れなくなった。「またここに入ると夜まで出てこれない」頭がその思いで一杯になり、脚が固まった。

 

その場で上司に電話し、面談することになった。自分の現状をなんとか話し、精神が参っているとのことで心理士の方のカウンセリングを受けた。そこで、もう今の部署で続けていくことは難しいということで、配置転換を受けた。6月、異例の異動であったらしい。

 

新しい部署は比較的落ち着いた場所だった。改めての自己紹介があったり僕用に新しくデスクを用意してもらったり、そこで何とか続けていければという思いであった。異動をしたからには必ず役に立ってみせると、一度折れた心にも微かなやる気が湧いていたのを覚えている。仕事も多いが時間に追われることもない。先輩達との関係もいい。前よりは早く家に帰れる。環境は劇的に変わった。環境は。

 

しかし僕の気持ちはあまり変わらなかった。もう一度トライさせてもらえた感謝と必ず続けてみせるという思いとは別に、いつも胸に渦巻くものを感じていた。それは異動したことの負い目、多くの人に迷惑をかけてしまった罪悪感、途中で諦めた自分の情けなさ。今書くだけでも気が滅入るような感情が職場にいる間ずっと続いていた。6月終わり、この頃から涙腺がバグり出し仕事中に涙が溢れるようになる。カウンセリングでは前職への負い目が負担になって、軽い鬱手前の症状が出ていたらしい(鬱ではない)。壊れたままの涙腺を抱え7月に入る。集中していれば、なんてことはない辛い仕事ではなく捌き切れる量で、わからないことはなんでもすぐ教えてもらえる、それでもふとした拍子に、「俺はどうしてここにいるのか」「どうして前の仕事を続けられなかったのか」「いることでまた迷惑をかけているのではないか」「よく思われているはずがない」負の感情が湧き上がる。考え出すと止まらない。軽い人間不信に陥っていたのではと自分で思う。実際は当然そんなことはない。誰も皆さん信用と尊敬に足る方々であったし、直接的に悪い態度を取られた訳ではない。それでも、それでもだ。考え出すと止まらなかった。自分でも抑えられず、また職場に行けなくなった。7月も終わりが見えた頃だった。

 

そしてほんの数日前のカウンセリングの時だった。心理士の先生にも難しい場面だと言われた。今の状態のまま働き続けることは難しい。いちばん避けるべきことは、その心理状態に病名がつくことだと言われた。病気になった時、手続き上は休職の措置が取れる。しかし、休職はあくまで復帰を前提とした措置であった。障害の原因が仕事の辛さや人間関係といったある程度動かせる外部のものではなく、負い目、人目、罪悪感という個人(僕)の精神要因では、休職してカウンセリングと心療内科の受診をしたとしても、復帰後に元の精神状態に戻っている保証がない。それどころか、その休職が更にプレッシャーになって、今度こそダメになるかもしれない。それは避けなければならないので休職を勧めることは難しい、とのことだった。上司からも、事務的な手続きとして休職もなしのこれ以上の欠勤は経歴に傷がつくことになる、それは避けてほしいと言われた。こうして事実上の二択を提示された。今(明日)から復帰するか退職するか、である。決断を迫られた。

 

その時には内心もうどちらにするか決まっていたと思う。このままズルズルと今の状態のまま休んでも自分が苦しいし思いも腐っていく。休んだとしても復帰する時に元気でいける自信もない。これ以上迷惑と心配をかける訳にはいかないし、苦悩とも呼べる今の状態から解放されたかった。こうして7月末、退職することになった。

 

当面はとにかく動いていたいしお金を作らなければならない。有難いことに大学時代のバイト先にまた戻して頂けたので、そこでバイトをしつつ落ち着いたら就活をしようと思う。

これが今後の動きの話。

 

そして気持ちの話

僕自身これでよかったのだと思っている。心残りは当然ある。不安もいっぱいある。仕事はともかく、同期の人達ともっと仲良くなりたかったし残せたものもきっとあった。もう少し気持ちが強く持てていたら、また違っていたかもしれない。また就活にも苦しむだろう。次の場所が見つかったとしても、また潰れてしまうかもしれない。

でも、これで良かったと思う。今後の不安を除けば、あと朝と夜に少し不安定な気分になることを除けば、気持ちもすっきりしている。生きることにも前向きだ。だから、これで良かったし、僕は大丈夫だ。

 

これまでのことを無かったことにはしない。良い勉強になった。自分の限界も知ることが出来た。今回のことで、見えてくることもきっとあるはずだ。人生は巡り合わせで回っていく。これがきっと良い方に向かっていく。そう思える人生を。それが今の志。

夏の恋を求めて

今日更新しないと死ぬ。というのはもちろん冗談で、だけどそれほどの衝動に駆られる夜がある。目的なんて何も無く、書きたいことがある訳でもなく、ただ今日を生きた痕跡を残す為にブログを書く。生を残さない日は死だ。そういう意味では、この1ヶ月は死んでいたのかもしれない。振り返れば為すべきこともなく、成したこともなく、ひたすらにやってくる日々に忙殺された1ヶ月だった。僕はこんな生活をするはずだったのだろうか。少なくとも今より希望に溢れていた数ヶ月前の僕は、今の僕を見てなんと言うだろうか。なんと思うだろうか。恐らく「お前また懲りずに善人面してんな」とか「お前なんて俺じゃねぇぜ、ケッ」とか愛想を尽かされ悪態を突かれるだろう。"忙中閑あり閑中忙あり"というが、"忙"しかない。自分と思考を殺される程の"忙"しかない。穏やかな心持ちになったことなど一時もない。夢見心地はおろか、夢すら見ない。"忙"しかない。何度でも言う。"忙"しかない。

 

恋がしたい。朝日と共に殺される日々を送るには、恋が必要だ。想いの強さが明日を生きる糧になる。小学生の様な気恥ずかしさと、中学生の様な落ち着きの無さを抱えながら、高校生の様な親しみやすさと大学生の様な穏やかさを持って恋をしたい。出来るならそこに大人の冷静さと真剣さを加えたい。そんな恋がしたい。するとまた数ヶ月前の僕は忙殺されリビングデッドと化した僕に言うだろう。「お前はまたそうやってしたいしたいが先行して願望に溺れていることに気付いていない」

 

まさしくその通りだ。

 

死臭漂う今の僕に、華やかな色はないのである。人生からもすっかり色は抜けきって、あるのは黒と灰色と白である。ならばその3色でとなんとか色彩を考えてみても、既にバグった脳みそにそんな高尚なセンスは一切なく、脳細胞は灰色はおろか黒く淀み、唯一の白にもところどころに染みがある。お世辞にも綺麗とは言えないライフキャンバスだ。

 

好きな人ができたところで、こんな腐りかけた腕では抱きしめることもできない。この僕に出来ることなど何一つない思いである。気付いてもらおうと好意をだだ漏れにしたり、振り向いてもらおうと躍起になったり、理想になろうと努力したり、恋の楽しみを得られるのは、全ては生きていればこそなのだ。右目が塞がったこの僕には到底叶わぬ話だ。生きていない。死んでいないだけで、生きていない。今の僕には資格すらない。

 

それでも僕は恋がしたい。染みを拭った白を以って、生き返らなければならない。誠実の中に身を置いて、正しさの白に個性の色を加えなければならない。過去には戻れない。かつてのようにはなれない。進化を以って過去を克服しなければならない。全ては恋をするために。身体を貫いた心臓の杭は、引き抜いて僕を殺した奴等に突き刺してやればいい。恋は正義だ。許される。

 

衝動を大事に、誠実さと冷たさを持って少しの復讐心を抱えて、僕は夏の恋を求める。