Right to Light

陽ととなり

跳んで、巡って、対立し、隣り合う

どうやら私は怒っているらしかった。年々短くなっていく所謂繁忙期というものの中に居ながらにして、プライベートを起因に仕事に八つ当たりしそうになる。スケジュールがあるというのは個の私にとっては好ましいことであるが一方でそれがもたらす先の見えない不健全さが思いを侵食していく。さっさとその日がくればまた虚な毎日に戻れるのに、いつか言ったように、たとえ私じゃなくなったとしても幸せだとは限らない。思うに私は自分に向けられたぞんざいな“眼“が気に入らないらしい。軽く扱われると中学生だった時のことを思い出す。私が丁寧にトンボをかけたポジションに旧友が喚きながら飛び込んでくる(“トンンボをかける“って10年ぶりに言葉にしたな)、あの台無しにされる感じ。部室の砂ぼこりを掃除していた時に「ここまでやれよ」と言われたあの感じ。虚な日に身を置き是を良とすれば、自分はもっと大事にされて然るべきだということを忘れそうになる。怒りたい時には怒ればいいのだ。私だっていつも聖人に紳士じゃいられない。終電が無くなるような足の無い場を選んでやろうかと企てたくなる。だとしても、人の言葉を借りるのならそれが友好の証なのかもしれないらしいのだ。気の置けない距離感、もっともどちらの意味で正しい。だとするなら気のいい私はそれを良とするしかない。私は浅はかなりに、私には越えられたくない一線があるのにそれを越えて来る人を良としなければ世界が広がらないことを知っている。異なる人こそ自分を広げてくれるのだと知って体験したばっかりに、一層の輝きを以てこの言説は私の生の柱となっている。生じる責任を私は噛み砕くことが出来ずに消化不良に嵌っているのが今だ。これだって臆さず尋ね訊き請えばすっきりするだろうに、消化不良の解消自体が自己満足だという自意識がどんどん胸を灼け付けていく。名を与えることで世界は構築され広がっていく。知ることで人は深まり巡っていく。でもどこかの深層で必ず私は引っかかる。このまま沈んでいけたらいいのにと感じる本能を背に、他者世界と自己の道徳性を秤にかけて、この歳までどの時も針を自分の方へ振ってきた。これが原因なんじゃないか、私として、個として、人として、これが限界なんじゃないかと思う。そこで対する人と少し話し合えたなら、私だけじゃなく互いに半歩の歩を進め合うことが出来たなら、世界は一層色を増すだろうと切なく思う。