Right to Light

陽ととなり

選択の罪と罰

空は明るいのに小雨が降り止まない日だった。反抗期の子供が親に怒られて家を飛び出す様な衝動に任せて車を走らせた先は、何の思い出もない神社だった。御手水で清めることも億劫に感じ賽銭箱に25円を投げ入れそのまま帰ってきた。得たものはこれと無く、失くしたものは往復の3時間と60km分のガソリン。

 

してもしなくても結果が同じなら何もしない方を選んでいたかった。だって疲れるし。それが朝の挨拶だろうと会話の返事だろうと、100の内0.1でもリスペクトがあれば当然に返す。ただしない方が楽だと、しない方が身の為だと思える程にバカバカしく思える時があるのだ。かつては「この狭いコミュニティで俺だけは尊敬を失くすまい」と青く考えていたけれど、そんなものは何の意味も成さなかった。あるのは無と失望。する選択を取った自分を情けなく感じ以来口は最低限のことだけを発するのみになった。嫌いなものが増えていく。考え方は歪になって、逆恨みだけが繋がりになっていく。悪いのは誰だとひたすらに問い詰めていく。僕が抱いている想いが侵された訳でもないのに、ただ人がゆっくりと自然に大人になっていくだけなのに、その瞬間を目の当たりにする度に深く沈む喪失感を喰らわされる。

 

これは罰だ。

 

傷をアイスピックで抉られるような痛みも、顔を剃るのに蒸しタオルを当てている時間の憂鬱も、歪に育った自我も全部、犯した罪の罰だ。電車に乗ることや鬱屈な休日、気だるげな陽の光、日常のあらゆることをトリガーにして己の不甲斐無さを嘆くのがそれだ。僕が悪い。ひたすらの自責は考え過ぎでも思い上がりでもない事実。消えることのない選択の罰。これから先、僕の思考はその罪を土台に積み上がる。どれだけ努力の結果が見えようと、どれだけ人に認められようと、全ては贖罪になってしまう。あらゆる行動も賞賛も承認も報奨もマイナスを0に近づけるだけのもので、決して僕は自分を赦さないだろう。「普通」が蔓延る社会に於いて、絶対に安らぐことはない漸近線だ。実態の無い『僕の』相応の価値、定義付けされていない不確かなものを手に入れようと、それがどんなものであれ絶対に満足しない癖に見つからないことに苛立ち恥じ責める。それの繰り返し。自分を責め続けて見えたことは、(少なくとも僕は)自分を救えるのは自分だけだということ。その自分さえも諦め見捨てようとしているのだからそれはある種の諦観。足掻いたところで赦しは無い。

 

とは言っても生きるための希望は持っていたい。「したことない」をするこれからにしたい。赦しは無くとも多少の安らぎを得てなんとか人間でいたい。足掻いた結果で何も変わらなくても思い出は残る。接することはなくても近づける。それだけがマイナスの精神を泳ぐ僕の唯一の導に思えるから。