Right to Light

陽ととなり

夜枕に零す

6月が終わる。早い!変に肩をこわばらせながら職場に入場していた2ヶ月前と比べれば、自分でも明らかに力が抜けているのがわかる。与えられたタスクをその日の内に始末出来たりちょっとしたことでも褒めてもらえたりすると、働くって素晴らしい!と簡単に覚えてしまうところがなんとももどかしい。逆に自分なりに考えてとった行動が裏目に出ると死にたくなる。今日は電話した相手に詐欺と思われたらしく硬球をぶつけたアルミ板のごとく急速に凹んだ。まぁそんな感じで浮いたり沈んだりしながらも毎朝起きて通勤できるだけで自分にマルをあげたい。

 

難しいのは仕事だけではなくて、やっぱりどうしても自分の立ち位置や振る舞いが気になってしまう。最初は泥臭くスマートさをかなぐり捨てるくらいの姿勢でいいはずなのに、6月の僕は傲慢な本心を迎えて、いいよういいように思われようとしている。自分を縛っているのは誰なんだと言う話だ。僕を見る目か、それを見る僕の目か。だからいつしか本来の自分を忘れてしまう。正しさなんてないものをよりよくしようと突き詰めていくせいで、答えのないドツボにハマっている。こんなことをして何の意味があるのだろうとつい思ってしまう。意味なんて今はわからなくてもいいはずなのに。後になって全ては繋がっていくはずなのに。今までだってそうだったじゃないか。巡り合わせの最果てに6月の僕がいた。そして6月の僕はまた巡り合わせに繋がれていく。それでいいじゃないか。

 

意味を求めたくなるのが性分なら、あり合わせで構わないから手の届くところに用意しておきたいのだが。ケトルの中に、ペン立てに入れたデザインナイフの隣に、クローゼットにかかっているかもしれない。たとえしわくちゃだったとしても、アイロンをかけて丁寧に磨いていけば、見つけた場所なんて関係ない、少しは見られる様相になるだろう。それだけで夜が幸せになれるのに、まだそんな余裕はない。求めすぎる余りに、強欲な本心は得るものもなしに枕に頭を乗せることを良しとしない。だからそれを縛っているのは誰なんだという話だ。

 

今日の意味なんて考えるなと言い聞かせて、眠る許しを乞う。それはもっと大人になってから、朝焼けを見ながら靴を磨く余裕を持つまでは気にしなくていいことだ。少し押されたくらいでいっぱいいっぱいに抱えているものを零してしまう6月に、さらに意味を持たせるなんて酷が過ぎる。その優しさも不意に忘れてしまうことが、それに気付いてしまうことが、悔しくまた辛いのだけど。