Right to Light

陽ととなり

what I really really want

もうすぐ5月も終わる。働きはじめてなんとなくぼんやり毎日を過ごしていたら、気づけば1ヶ月経っている。それが長いのか短いのか僕自身よくわからない。以前と変わらず、労働は僕から1日の半分を奪っていくし、毎日新しいことの繰り返しで出勤してついていくだけで精一杯なのが現状だ。たまに「それ僕聞いてましたっけ?」みたいなことを言われたり、「イロハのイも理解していない僕にいったい何を求めているんだこの人は」と思ったりすることもある。だけれど、まぁ社会とはそういうものでみんながみんな個人を鑑みることなんてしないのだろうということで、後味の悪さを感じながらもなんとか噛み砕いている。人のことを気にする余裕なんてないのだ。今はただ「行けばお金がもらえる」の一心で、たとえそれで何か思われようとも、姿勢として僕のその一心が妥協という拠り所になっている。何言ってるかわからなくなってきた。とにかく毎日この気持ちと闘っている先輩後輩同級生、社会で働くあらゆる人達を尊敬する。正直言えば、刺激はあるが寂しい毎日だ。僕は今まで僕しかしたことがないから、こういう大海に放り出されて孤独に溺れる時、他の人達がそこからどう泳ぎ始めるのかがわからない。前から言っているように、孤独との付き合い方を見直さなくてはいけないと最近つくづく思っている。

 

というのもあって、働きはじめてから、「寂しくなった時は人に会う」ということを最近覚えた。かつて僕の居場所があった場へ、僕はベトナム珈琲を求めに入り浸るのだ。へばった脳にコンデンスミルクが染み渡る。それだけではない。心にできた寂しさの穴を埋めるためでもある。10代の夢を思い出せる場へ、半ば導かれるように足を運ぶのだ。過去に執着するのは今に不満がある証拠だと考えていたが、それはどうやら一面的な見方で、今を生きるために過去に執着する必要があるという考えを持つようになってきた。執着というと言葉が悪いか。恥ずかしげもなく言えば、そこで元気を貰っているのだ。今日を頑張ろうという元気を、明日も頑張ろうと思える元気を、ベトナム珈琲と一緒に頂いている。親愛なるスタッフ諸兄におかれましては、あまりにも頻繁に通う僕を見て「こいつ大丈夫なんか」と思われるかもしれない。ここではっきり言う。「僕は大丈夫。僕は大丈夫ではない」。本来なら「全然だいじょーぶ!心配ないぜ」と言ってやると様になるだろうが、生憎人のことは考えないようにしているのでそこは許してほしい。ていうか全然大丈夫じゃない。仕事がキツイとかそういうことではなく、君達に会えないのが寂しくて退屈で仕方ない。だから大丈夫じゃない!それにもし「大丈夫になってしまう」と、君達に会いにいく理由が無くなりそうで嫌なのだ。だからしばらくは通い詰める僕を暖かく受け入れてください。お願いします。(我ながら愛に溢れていると思う。どうぞ慕ってくれて構わない。)

 

「寂しい時は人に会う」、僕は新しく学んだのだ。覚えたてのことは実践したくてたまらない。その楽しさを、愉快さを、懐かしさを、すべてを明日の糧にする。ノスタルジーと人生の厳しさの狭間で揺れながら、今日もなんとか働くことができた。明日もきっと大丈夫だ。寂しさだって悪いものじゃない。この寂しさが無ければ、僕はきっと楽しみを持って夜を迎えられていないだろうから。