Right to Light

陽ととなり

Help!!

これを書いているのは本当に無謀としか言えない。8月になってから考えることが増えて、遂にはパンクした。頭の中で喋る自分はもうずっとネガティブに言葉を並べ続けるし、それを発しようとする自分はもう口を開くことすらしたくない。気持ちの奥底では発散しないといけないのはわかっている。実際何度も何度もtwitterやこのブログに何かを発しようとしたけれどどうにもダメだった。それはどの言葉ももう自分のものではない気がして、破裂した脳みそでは1時間毎に大きく揺れる感情に着いていけなかったし渦巻く考えをまとめられなかったからだ。今もこうしてベッドに横になりながら考えはじめると頭の中がうずくように痛む。でももう仕方ない。これ以上内に抱えこむことは出来ない。直接でも婉曲でもどうでもいい。僕は今救いを求めているし自分じゃ自分を救えない。ここに何か書くことでこの胸のモヤモヤを少しでも拭えるのなら、頭が痛かろうがまとまらなかろうが残すべきだ。やっぱり無謀だ。

 

言葉と考えが浮かんでは消えて忘れてしまうので自分が何を考えいるのかわからない。どうせ忘れてしまうのなら考えることすら無駄ではないか。今は疲れることを極力避けていきたい。そんな風に土日を過ごしていたら人と話すことを忘れてしまっていた。ずっとイライラしていた土日だった。そんな気持ちで集中力が続くはずもなく何をしていても楽しくない。気分を変えようと外に出てみても眼に入るものがなぜか憎く思えて仕方がなかった。嫉妬か羨望か、とにかく眩しく見えるものが憎かった。ちなみに今もだ。何か作ってみてもうまくいかないしパッとしない。そもそもそんなイライラしながら作るものが良いものなはずがない。うまくできないからまたイライラは募っていく。逃げ場がない。

 

それでも明日になればまた変わるだろうとじっと堪えるのだ。今日はきっと僕の日ではなかった。Not my day、明日には違う日が待っていると思う。そう思わないともうやっていけない。助けて欲しい。苦しい。孤独は僕を殺して、独りの僕は手首を切る。内も外も逃げ場がない。八方塞がりだ。何度も何度も同じことを書くのは、何度も何度も同じことを考えるからだ。

 

今年は穏やかな夏を過ごしたかった。でもそうはいかない。声を出せない自分を何度情けなく思ったことか。今よりもう少し若かった頃は、誰かに助けを求めなくてもなんとかなった。でも今は違う。自信はすっかり塵になって、クールにもスマートにもいられない。人生はすっかり変わってしまって描いた理想も影となって、不安に駆られて逃げてきた。情けない僕ですまない。でもこれは心の扉を開けというサインなのかもしれない。気持ちを変えて殻を破れというサイン。

 

すごく落ち込んでいる。

 

また僕が立ち上がるために助けて欲しい。

あの夜のイサナ

家を出て北へ車を走らせると信号がある大きなT字路にぶつかる。そこを右折。これまた大きな池をぐるりと反時計回りに北へ、北へ。その内に右手に小さい頃よく連れて行ってもらった洋食屋さんが見えるのだけど、幼げでおぼろげな記憶を懐かしみながら坂を下って行く。またT字路にぶつかるので今度は左へ。それで国道に乗る。後はひたすら真っ直ぐ。北へ、北へ。そうして到着するのが、僕にとって、ちょうどいいお店。

 

当時仲の良かった女友達からそのお店の存在を教えてもらった。串焼きとカニクリームコロッケが美味しいらしい。あまり外食をしない僕はその時は半分聞き流していたけれど、今思えばそれは僕の青春において最も熱い情熱の第一歩であって、最初で最後のひとふみであった。

 

前日に車を洗った。洗車機を通して拭き上げ、ワックスを2回かけた。当時から今でもずっと聞き惚れているアリアナのCDをかけ、かつてない胸の昂りと緊張に挟まれ時間を待った。夏の暑さがようやく過ぎ去った10月の終わりの頃の出来事で、ちょうどその日に眼鏡を新調したことを覚えている。その日は悩んで結局コンタクトで出かけたのだけど、目が乾いたのはきっとそれだけが原因ではなかったように思う。秋口の寒さを感じさせる薄青い夕方の空に彼女は時間通りにやってきた。いつもとは違う服装で、こんなことでドキドキするなんて中学生みたいだなと思った。というのも彼女の服装はなんだか中学生みたいだった。teen誌に載っている"大人コーデ"を想起させた。それでも彼女は立ち姿こそ大人そのもので、そのキャップを被っているギャップに僕はとことん撃ち抜かれた。それで何度目だったのかは覚えてないが、とにかく撃ち抜かれた。穴だらけになった喉元からラブレターが漏れ出しそうになった。彼女を助手席に乗せて北へ、北へ。行き先はあの時教えてもらったお店。さも自分で見つけたんですよという風に、串焼きとカニクリームコロッケが美味しいらしくて〜と、とにかく緊張と沈黙を紛らわせることに必死だった。北へ。道なりに、北へ。店の裏にある駐車場に停めようとしたら彼女に「前に来たことあるの?」と尋ねられた。とてもじゃないが「あなたと来る為に事前に下見をしたんですよ」と事実を伝える余裕はなくて、黙ってギアをRに入れた。

 

お店に入ってからの僕の感情は、残念ながらあまり覚えていない。思い出そうとすると恥ずかしさで沸騰しそうだ。それでも、串焼きとカニクリームコロッケは確かに美味しかったこと、彼女が頼んだバーニャカウダというものを初めて食べて僕には美味しさがよくわからなかったこと、彼女はキールとモヒートを飲んでいたこと、それがとても良く似合っていたこと、それらだけは強く記憶している。 至福とは時間と空間を共有することだと、知性を持ってはじめて気付かされた。

 

最初で最後のあの3時間に、一体どれだけの想いを込めただろう。でもあの夜だけが、僕にとっての一世一代だったのだ。今日動かなければ自分は自分でなくなってしまうだろうと、自分を救うものは理解の外からやってくる情熱なのだと、彼女はそれを僕に教えてくれた。時間は夜を越えて、心に少しの傷と教訓を刻みこんだ。

 

あれから数年経って、彼女はもう居なくなってしまった。これから先連絡を取ることはないだろう。若さはこれからも進んで行く。時に息苦しくなるかもしれないし、酷い傷を背負うかもしれない。それでもあの夜の傷は刻印となって僕を導いていく。あの夜あのお店でなかったら、そんなことを考えても仕方がないが、あの幻のような夜の幸せと緊張感を思い出させてくれるちょうどいいお店になってくれた。

 

飲むならモヒートを。食べるならバーニャカウダを。偶に足を運ぶ僕はそこでほのかな残照に照らされて帰路に着く。南へ、南へ。

的を射られたら良いのに

空が重たい雲を纏っているように、気持ちもすっきりしない1日だった。朝から友人と遊んでいたのだけど、楽しさ一転家に帰った瞬間の心の動揺はなんとも気持ちが悪かった。不安、焦り、不自由、ルーティンに支配された朝を繰り返す度にそれを約束している夜が嫌いになる。持っていた強さを全て失って、壊れた心がそれ以上バラバラにならないように繋ぎ止めることに必死だ。そこに明るい未来は無いし、希望というものも最近感じなくなってきた。あるのは不自由、ストレス、浪費。この3つは終わりなく循環して僕の心を貧しくする。ひたすら自分を哀れむことは簡単だから、そればっかりが夜の過ごし方となってしまった。いつか落ち着く日々が来るのだろうか?一週間後のスケジュールに気分を重くするのではなく、まだ見ぬ我が将来に希望を馳せる日が来るのだろうか?そんな余裕を持つことすら高望みだと言われてしまいそうだ。ならどうして人間は生きるのか。希望を持つことすら贅沢とされる生活に、他に何を見出してこの荒く思いやりのない世界を生きていけと言うのだろう。

 

それでも一般的にそれが是とされている。元々辛いものなのだとされている。そこを渡り泳いで行くのが人生だとされている。なら間違っているのは、それに抗おうとするこの僕の方なのだ。他の人が出来ていることを出来ない僕が間違っているだ。自分は不適合者だと認めてしまえば楽かもしれない。思い切ってあらゆる人に甘えを見せられるかもしれない。それがもしかしたらこの世界を泳ぐ方法なのかもしれない。齟齬は波紋のように広がっていく。僕がこれまで大切にしてきた責任感や嘘をつかないとかいった信念が、今まさに僕の首を絞めて「正直者は死ね」と言ってくる。その開いた口の中に見える目は、まさしく僕のものなのが恐ろしい。

 

穏やかに夜を迎えて生きることが、こんなに難しいとは。今までの生き方はいったい何だったのだろうと虚しくなる。哀れむ自分を何度嫌悪したことだろう。繰り返す毎に強くなっていくことすら僕には出来ない。出来ることを見つけたい。自分では見えないところにあるのなら、誰か教えてくれ。こんな言葉でも残すことに意味があるのか。わからないことだらけだ。何かひとつでも、「これだ!」というところで的を射られたら良いのに。それだけで気持ちは変わるのに。

 

こんなヘドロのような気分の夜を迎えているが、友人と過ごした日中は楽しかった。ダーツをやってきた。

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まぐれでハットトリックを出せた。新しい楽しみを見つけたから、この楽しみと見つけた思いを大切にしていこう。

10代の夢

歳を重ねる毎にメンタルが弱くなっている気がする。いや、もう夜を過ごす度に弱くなっている。僕は身を縮めてベッドに入り朝を恐れて眠りつく。不純な思いに負い目を感じながら、本当に自分はこの場所に居ていいのかと問いかける。居ていいもなにも、もはや今の僕に居場所はそこしかないのでそこでノーをくらった時点で破滅だ。また居場所を求めて彷徨うことになる。きっとイェスだろうとなんとか自分に言い聞かせるけれど、同級生達が出来ていることを自分が出来ないと悟った時は悪寒が走って動悸でいっぱいになる。ちょうど小学生の時九九の7の段を言えなかった時みたいに。恥と焦りに身を焼かれ、もう全てを投げ出して川底に沈む石になりたいと思う。個々のキャパシティの差はあれど、人間として暮らすのはすごく大変だ。

 

つくづく10代の夢に生きたいと思う。青空の下恋人の手を取るような、夕暮れの丘でタップを踏むような、理想の夢を抱いて生きたいと思う。時折ミザリーの雨にも濡れたい。

 

認められることでしか弱っていく心は癒せない。強くならなくていい、現状維持は行えない。僕の価値も甘さも、隠している訳じゃないので大っぴらに話が出来るのだけど、それでもやっぱりそこで引かれたりすると傷付いてしまうのがよくわからない僕の心の機微だと思う。どうしてそんなに臆病なんだろう。守ることに固執し過ぎ、神経質に考え過ぎだ。

 

今日は話し方というものを学んだ。話し方というより情報の聴き出し方と言った方がいいか。質問をし、相手の答えから想像力を働かせて人となりを見つけ質問を連鎖させていくことで、その相手の人となりを引き出せるそうだ。それを聴いてなるほどと思った。普段は聞くことばかりに集中して、そこに想像を加えるなんて考えたこともなかったから、眼が覚めるような話だった。そこに自分の話を加えれば、立派な会話になる。もっと自分を開いていいのだとそう教えてもらった。僕は開けているだろうか。そもそも見せる気のない人となりを勝手に知らせた気になって、それで理解されないと落ち込んでいるだけではなかっただろうか。自分との話は十分過ぎる程した。これからはもっと自分を外に向けられるようにしようと思った。神経質な性格を少し抑えて、心を開く勇気を持ちたい。

 

それもきっと10代の夢なのだ。誰かに愛されたくてたまらなかった10代は、誰かに認められたくて仕方のない今となって、新たな自分を開くチャンスを示してくれている。あの頃の夢に生きたい。

どうして情熱を失くしてしまうのか

熱くなれるものが欲しい、常にそう願っていた。部活、趣味、恋、時間を忘れ自分の思うままに心を支配できるもの、それに尽くすことが辛い現実からの解放であって生きる楽しみだと考えている。僕は作ることが好きだった。小さい頃なら工作、木工、作文、少し前なら革、今ならお菓子。なんでも良かった。自分の作ったもので他の人ないし自分の心を動かすことが出来るとものすごく嬉しかった。作ったものを褒められるとすごく嬉しかった。自分は何かを生み出せると思えることがすごく嬉しかった。「作る」というのは物理的なものだけじゃない。文字を綴ることだって、言葉を考えることだって、自分の考えや思いを誰かに伝えることまでしなくても、心の中で生み出すことで僕は僕を作っていた。詩だって書いた。短歌だって詠んだ。今となってはもう思い出したくもない歯が浮くような台詞を使う相手もいないのに考えた。あの頃の僕の欲の泉が尽きることはなくて、電車に揺られながら31音を揃え起す時間は最高だったし講義中に書くレザーアクセサリーのデザインは僕の宝物だった。時間を忘れて革を縫いあげ毎週末次は何のお菓子を作ろうかなとワクワクしていた。(この記憶に恋愛が絡んでいないのがとても淋しくあるのだけど。)

 

情熱があった。情熱に心は支配され、孤独と不安を吹き飛ばした。僕に誇りを持たせてくれた。

 

だけど今は違う。どうして僕は情熱を失くしてしまったのか。かつてのごうごうと盛る篝火から、灯火を仄かに揺らす一本の蝋燭に成り果てた。

 

それをすることに飽きてしまった訳ではない。ただ、する気が起きない。「して何になる」とバカみたいな達観を気取っている。お金だって使うからそれを気にする。でもきっといちばん大きな要因は、情熱で孤独や不安を吹き飛ばすことが難しくなったからだと思う。何かに打ち込むのは、今いる辛い世界を忘れたい、目を背けたいからだ。逆を言えば、辛さを忘れられなければ、打ち込む理由が無くなる。生活の半分を占める悲しい現実は侵食するように残りの心を染めていく。その生活の半分半分でうまく切り替えが出来る人なら良いのだけど、僕みたいな不器用な根暗には理想を体現するように難しい。

 

楽しい時間を過ごしても辛い現実は消えてくれない。少しでも薄れることを期待しても、現実は足音も立てず心を影へ引きずり落とす。僕は自分のすることを常に正しいと思っていたい。正しさの白の中で、現実を忘れるとかではなく純粋な楽しみを求めて、衝き動かされる情熱を持っていたい。個性に生き恋に溺れ、創り上げる自分の頭と手を愛していたい。どうして僕は情熱を失くしてしまうのか。違う、失くしてしまった訳ではない、少し足元に置いてあるだけなのだ。そう思うことにする。仄かに揺れる蝋燭を頼りに照らしてみれば、また別の情熱が微かに光っている。人のしてきたことはそう簡単には消えない。地面に置いたって輝きを失くすことはない。そうであるべきだ。また拾い上げれば良い。

 

週末はダーツをやってみたい。そしてシュークリームを焼こう。純粋に、やりたいからだ。

みんな大人になっていく

思えば金曜日からの3日間ほとんど外に出ていた。お家大好きのインドア人間(半引きこもり)にとってはなかなかないことだ。金曜日は朝から研修で電車に揺られて、そのまま直帰で友人と串焼きを食べに行った。土曜は昼から同級生と、ハンバーグを食べてダーツをして飲みに行って……ダーツって面白い。狙える技術を持てたらあれはすごく面白いぞ……!マイダーツとかをほんのりAmazonで調べてしまっている。日曜は朝からレガッタを漕いで、太陽と水面からの反射で両面焼きのハムエッグになるかと思った。汗だくになる運動はいいものだ。昼には帰ってきて思い立つままにマドレーヌを焼いて、冷めたら出かけようと思っていたのに昼寝しちゃって寝起きで晩御飯を食べて夕涼みドライブに出たのに外はまだ全然暑くて……今日も終わっていく。

 

楽しみを見つけて暮らしていくことはとても素晴らしい。終わる切なさはあるけれど、また自分で作っていけばいいんだと思える間柄を持てている現状は、すごく喜ばしいことのはずだ。1日ずっとクーラーの部屋に居ても生まれるものはない。僕が求めるものが刺激なら、この週末は実に適度で有意義だった。人と交わる感覚、言葉を交わす感覚、身体を動かす感覚、どれも久しぶりで都度夜が来る度に身体の真ん中にじわっと広がって行く喜び。汗を流した身体からベッドへ疲れが染み出して溶け込む快感。僕が求めるものが刺激なら、今日は気持ちよく眠れただろう。ただ、どうもそうは行かないところが我ながら面倒臭い性格だ。この3日間で、僕は何か変化を起こせたか。行動出来ない人間に変化はない。部屋の中にいるのと変わらない。

 

性格なんてどうやったってすぐに変わるものでもないしなんならもう一生このままだと思っているけど、動けない自分を俯瞰している自分が情けない。人は変われないと確信しているのに変化を求めている自分が嫌いだ。僕は変われないと思っているから、もう目の前に落ちて来る選択から自分に良いものを拾っていくしかないのだと思う。拾って拾って、たまに来た道を振り返って「全然進んでねぇな」とぼやく。拾って拾って、たまに周りが拾っているものを覗き見て「私のものとあまりに違う」と嘆く。嘆くのだ。僕が今まで良しとしてきた世界と現実があまりに違うから。その齟齬を口に無理矢理押し込まれて、置き去りを味わう。今まで積み上げてきたものが何も通用しない無価値な無機物に成り果てて、そこに費やした年月の喪失感にもう何が正しいのかわからなくなる。だから無意識に自分を守っているのだと思う。自分の中で、変わらないことを良しとしておかないと、僕は世界のスピードについていけず外界の刺激にショック死してしまいそうだ。結局変わりたいのかそのままでいたいのかすらわからない。

 

平成最後の夏が来て、それはあの頃の夏と同じように過ぎ去って二度と戻ってこない。それを理由付けにする訳ではないけれど、言葉にするのも気恥ずかしい何かに焦っている自分がいる。

例え私じゃなくなったとしてもそれで救われる訳じゃない

フィクションの女になりたいと思う。そこでは全てが自信に溢れた世界で、あらゆる感情を言葉に出来る。切り捨ててみたり、無関心を貫いてみたり、たまに下唇を噛んで強がってみたり、そういう存在に私はなりたいと思う。

 

夜が来ても暑さはじっとりはりつくように私から歩調を奪う。今日は1日ずっと外に出ていたからさすがに疲れた。楽しさと疲れがちょうど身体の真ん中で分かれているみたい。右腕は震えて上がらないし、久しぶりにお酒を飲んだからお腹の下の方がざわついてる。そして、きっといつもある感覚、時間が過ぎて独りになる感覚。今日外に出ていた分だけ、私は独りにならなければならない。何も抱えていないこの両腕に、目一杯の独白を。

 

とにかく気に入らないことを書き出していくと、それだけですっきり吐き出した気持ちになる。と言っても思いのほとんどは忘れてしまって、一見健全な身体のように見える。あぁ、でも、そうしようとすれば思い出せるものだなぁ。気に入らないことなんだからそのまま忘れたままで良いのに。どうして二度もこうして自己嫌悪にはまらなくはならないのか。こんな時、私はフィクションの女になる。彼女だったらどう思うだろう。"私は精一杯生きている。苦手なことも必要なことと割り切って、なんとか綱を渡っている。それでもそこで傷付くことが、弱さだって言うつもり?一番恐れているのは自分がわからなくなること。周りになんと言われようと本当は放っておきたいの。私の生き方が間違っているって言うのなら、もう私には何が真実なのかわからないわ"。何を話してももう二番煎じにしかならない気がする。悩みはいつだって側にいて、そこに何かを思う私も変われないまま悩み続ける。弱い頭と足りない語彙をフル回転させても、できあがる言葉はずっと同じで面白くないのだ。"変われない"というのは呪いだ。似合わない自分を作るより、じっと今の自分を守る方が断然楽なのだ。その理由なんてなんでもいい。根っこにあるのはとにかく傷付きたくないだけ、それに尽きる。傷付きたくない癖に、私は夢を見てしまうから、ここで踏み出せば何か変わると自分に言い聞かせて、何度涙を飲んだことだろう。望む結果を得られない行動はすべて失敗なのか、きっとそんなはずはないだろうがそこにある未来への糧を私は見つけられないでいる。

 

もっと言いたいことは他にあるのに、あーうー、考えられない。口にするとまた自分を傷付けてしまう。変われることは喜びか、それはきっと自分を守ることに疲れた結果だと思う。私は昔から正直で居過ぎてしまったのだ。なのに肝心なところでいつも隠してしまう、自分を守ってしまう。"私の想いがわかるはずがない"。"あの時あなたの目を見た時は、ほんの少しわかった気でいたの。でも今じゃその自信もないわ"。フィクションの女になれたら、言いたいことを誰かに乗せて伝えられたら、きっと楽しいと思う。でもそれは、やっぱりフィクションなのだ。