Right to Light

陽ととなり

10代の夢

歳を重ねる毎にメンタルが弱くなっている気がする。いや、もう夜を過ごす度に弱くなっている。僕は身を縮めてベッドに入り朝を恐れて眠りつく。不純な思いに負い目を感じながら、本当に自分はこの場所に居ていいのかと問いかける。居ていいもなにも、もはや今の僕に居場所はそこしかないのでそこでノーをくらった時点で破滅だ。また居場所を求めて彷徨うことになる。きっとイェスだろうとなんとか自分に言い聞かせるけれど、同級生達が出来ていることを自分が出来ないと悟った時は悪寒が走って動悸でいっぱいになる。ちょうど小学生の時九九の7の段を言えなかった時みたいに。恥と焦りに身を焼かれ、もう全てを投げ出して川底に沈む石になりたいと思う。個々のキャパシティの差はあれど、人間として暮らすのはすごく大変だ。

 

つくづく10代の夢に生きたいと思う。青空の下恋人の手を取るような、夕暮れの丘でタップを踏むような、理想の夢を抱いて生きたいと思う。時折ミザリーの雨にも濡れたい。

 

認められることでしか弱っていく心は癒せない。強くならなくていい、現状維持は行えない。僕の価値も甘さも、隠している訳じゃないので大っぴらに話が出来るのだけど、それでもやっぱりそこで引かれたりすると傷付いてしまうのがよくわからない僕の心の機微だと思う。どうしてそんなに臆病なんだろう。守ることに固執し過ぎ、神経質に考え過ぎだ。

 

今日は話し方というものを学んだ。話し方というより情報の聴き出し方と言った方がいいか。質問をし、相手の答えから想像力を働かせて人となりを見つけ質問を連鎖させていくことで、その相手の人となりを引き出せるそうだ。それを聴いてなるほどと思った。普段は聞くことばかりに集中して、そこに想像を加えるなんて考えたこともなかったから、眼が覚めるような話だった。そこに自分の話を加えれば、立派な会話になる。もっと自分を開いていいのだとそう教えてもらった。僕は開けているだろうか。そもそも見せる気のない人となりを勝手に知らせた気になって、それで理解されないと落ち込んでいるだけではなかっただろうか。自分との話は十分過ぎる程した。これからはもっと自分を外に向けられるようにしようと思った。神経質な性格を少し抑えて、心を開く勇気を持ちたい。

 

それもきっと10代の夢なのだ。誰かに愛されたくてたまらなかった10代は、誰かに認められたくて仕方のない今となって、新たな自分を開くチャンスを示してくれている。あの頃の夢に生きたい。

どうして情熱を失くしてしまうのか

熱くなれるものが欲しい、常にそう願っていた。部活、趣味、恋、時間を忘れ自分の思うままに心を支配できるもの、それに尽くすことが辛い現実からの解放であって生きる楽しみだと考えている。僕は作ることが好きだった。小さい頃なら工作、木工、作文、少し前なら革、今ならお菓子。なんでも良かった。自分の作ったもので他の人ないし自分の心を動かすことが出来るとものすごく嬉しかった。作ったものを褒められるとすごく嬉しかった。自分は何かを生み出せると思えることがすごく嬉しかった。「作る」というのは物理的なものだけじゃない。文字を綴ることだって、言葉を考えることだって、自分の考えや思いを誰かに伝えることまでしなくても、心の中で生み出すことで僕は僕を作っていた。詩だって書いた。短歌だって詠んだ。今となってはもう思い出したくもない歯が浮くような台詞を使う相手もいないのに考えた。あの頃の僕の欲の泉が尽きることはなくて、電車に揺られながら31音を揃え起す時間は最高だったし講義中に書くレザーアクセサリーのデザインは僕の宝物だった。時間を忘れて革を縫いあげ毎週末次は何のお菓子を作ろうかなとワクワクしていた。(この記憶に恋愛が絡んでいないのがとても淋しくあるのだけど。)

 

情熱があった。情熱に心は支配され、孤独と不安を吹き飛ばした。僕に誇りを持たせてくれた。

 

だけど今は違う。どうして僕は情熱を失くしてしまったのか。かつてのごうごうと盛る篝火から、灯火を仄かに揺らす一本の蝋燭に成り果てた。

 

それをすることに飽きてしまった訳ではない。ただ、する気が起きない。「して何になる」とバカみたいな達観を気取っている。お金だって使うからそれを気にする。でもきっといちばん大きな要因は、情熱で孤独や不安を吹き飛ばすことが難しくなったからだと思う。何かに打ち込むのは、今いる辛い世界を忘れたい、目を背けたいからだ。逆を言えば、辛さを忘れられなければ、打ち込む理由が無くなる。生活の半分を占める悲しい現実は侵食するように残りの心を染めていく。その生活の半分半分でうまく切り替えが出来る人なら良いのだけど、僕みたいな不器用な根暗には理想を体現するように難しい。

 

楽しい時間を過ごしても辛い現実は消えてくれない。少しでも薄れることを期待しても、現実は足音も立てず心を影へ引きずり落とす。僕は自分のすることを常に正しいと思っていたい。正しさの白の中で、現実を忘れるとかではなく純粋な楽しみを求めて、衝き動かされる情熱を持っていたい。個性に生き恋に溺れ、創り上げる自分の頭と手を愛していたい。どうして僕は情熱を失くしてしまうのか。違う、失くしてしまった訳ではない、少し足元に置いてあるだけなのだ。そう思うことにする。仄かに揺れる蝋燭を頼りに照らしてみれば、また別の情熱が微かに光っている。人のしてきたことはそう簡単には消えない。地面に置いたって輝きを失くすことはない。そうであるべきだ。また拾い上げれば良い。

 

週末はダーツをやってみたい。そしてシュークリームを焼こう。純粋に、やりたいからだ。

みんな大人になっていく

思えば金曜日からの3日間ほとんど外に出ていた。お家大好きのインドア人間(半引きこもり)にとってはなかなかないことだ。金曜日は朝から研修で電車に揺られて、そのまま直帰で友人と串焼きを食べに行った。土曜は昼から同級生と、ハンバーグを食べてダーツをして飲みに行って……ダーツって面白い。狙える技術を持てたらあれはすごく面白いぞ……!マイダーツとかをほんのりAmazonで調べてしまっている。日曜は朝からレガッタを漕いで、太陽と水面からの反射で両面焼きのハムエッグになるかと思った。汗だくになる運動はいいものだ。昼には帰ってきて思い立つままにマドレーヌを焼いて、冷めたら出かけようと思っていたのに昼寝しちゃって寝起きで晩御飯を食べて夕涼みドライブに出たのに外はまだ全然暑くて……今日も終わっていく。

 

楽しみを見つけて暮らしていくことはとても素晴らしい。終わる切なさはあるけれど、また自分で作っていけばいいんだと思える間柄を持てている現状は、すごく喜ばしいことのはずだ。1日ずっとクーラーの部屋に居ても生まれるものはない。僕が求めるものが刺激なら、この週末は実に適度で有意義だった。人と交わる感覚、言葉を交わす感覚、身体を動かす感覚、どれも久しぶりで都度夜が来る度に身体の真ん中にじわっと広がって行く喜び。汗を流した身体からベッドへ疲れが染み出して溶け込む快感。僕が求めるものが刺激なら、今日は気持ちよく眠れただろう。ただ、どうもそうは行かないところが我ながら面倒臭い性格だ。この3日間で、僕は何か変化を起こせたか。行動出来ない人間に変化はない。部屋の中にいるのと変わらない。

 

性格なんてどうやったってすぐに変わるものでもないしなんならもう一生このままだと思っているけど、動けない自分を俯瞰している自分が情けない。人は変われないと確信しているのに変化を求めている自分が嫌いだ。僕は変われないと思っているから、もう目の前に落ちて来る選択から自分に良いものを拾っていくしかないのだと思う。拾って拾って、たまに来た道を振り返って「全然進んでねぇな」とぼやく。拾って拾って、たまに周りが拾っているものを覗き見て「私のものとあまりに違う」と嘆く。嘆くのだ。僕が今まで良しとしてきた世界と現実があまりに違うから。その齟齬を口に無理矢理押し込まれて、置き去りを味わう。今まで積み上げてきたものが何も通用しない無価値な無機物に成り果てて、そこに費やした年月の喪失感にもう何が正しいのかわからなくなる。だから無意識に自分を守っているのだと思う。自分の中で、変わらないことを良しとしておかないと、僕は世界のスピードについていけず外界の刺激にショック死してしまいそうだ。結局変わりたいのかそのままでいたいのかすらわからない。

 

平成最後の夏が来て、それはあの頃の夏と同じように過ぎ去って二度と戻ってこない。それを理由付けにする訳ではないけれど、言葉にするのも気恥ずかしい何かに焦っている自分がいる。

例え私じゃなくなったとしてもそれで救われる訳じゃない

フィクションの女になりたいと思う。そこでは全てが自信に溢れた世界で、あらゆる感情を言葉に出来る。切り捨ててみたり、無関心を貫いてみたり、たまに下唇を噛んで強がってみたり、そういう存在に私はなりたいと思う。

 

夜が来ても暑さはじっとりはりつくように私から歩調を奪う。今日は1日ずっと外に出ていたからさすがに疲れた。楽しさと疲れがちょうど身体の真ん中で分かれているみたい。右腕は震えて上がらないし、久しぶりにお酒を飲んだからお腹の下の方がざわついてる。そして、きっといつもある感覚、時間が過ぎて独りになる感覚。今日外に出ていた分だけ、私は独りにならなければならない。何も抱えていないこの両腕に、目一杯の独白を。

 

とにかく気に入らないことを書き出していくと、それだけですっきり吐き出した気持ちになる。と言っても思いのほとんどは忘れてしまって、一見健全な身体のように見える。あぁ、でも、そうしようとすれば思い出せるものだなぁ。気に入らないことなんだからそのまま忘れたままで良いのに。どうして二度もこうして自己嫌悪にはまらなくはならないのか。こんな時、私はフィクションの女になる。彼女だったらどう思うだろう。"私は精一杯生きている。苦手なことも必要なことと割り切って、なんとか綱を渡っている。それでもそこで傷付くことが、弱さだって言うつもり?一番恐れているのは自分がわからなくなること。周りになんと言われようと本当は放っておきたいの。私の生き方が間違っているって言うのなら、もう私には何が真実なのかわからないわ"。何を話してももう二番煎じにしかならない気がする。悩みはいつだって側にいて、そこに何かを思う私も変われないまま悩み続ける。弱い頭と足りない語彙をフル回転させても、できあがる言葉はずっと同じで面白くないのだ。"変われない"というのは呪いだ。似合わない自分を作るより、じっと今の自分を守る方が断然楽なのだ。その理由なんてなんでもいい。根っこにあるのはとにかく傷付きたくないだけ、それに尽きる。傷付きたくない癖に、私は夢を見てしまうから、ここで踏み出せば何か変わると自分に言い聞かせて、何度涙を飲んだことだろう。望む結果を得られない行動はすべて失敗なのか、きっとそんなはずはないだろうがそこにある未来への糧を私は見つけられないでいる。

 

もっと言いたいことは他にあるのに、あーうー、考えられない。口にするとまた自分を傷付けてしまう。変われることは喜びか、それはきっと自分を守ることに疲れた結果だと思う。私は昔から正直で居過ぎてしまったのだ。なのに肝心なところでいつも隠してしまう、自分を守ってしまう。"私の想いがわかるはずがない"。"あの時あなたの目を見た時は、ほんの少しわかった気でいたの。でも今じゃその自信もないわ"。フィクションの女になれたら、言いたいことを誰かに乗せて伝えられたら、きっと楽しいと思う。でもそれは、やっぱりフィクションなのだ。

諸々の弱者達

予想外の日射しにさされすっかり日焼けしてしまった。川が流れる音を聞きながら、僕は水が好きだなと思った。"ちゃぽん"と跳ねる音、"ぱしゅぁあ"と流れる音。プールに行って泳ぎたい日だった。雨が上がったと思えば頭の上にはもうすっかり夏がいて、川に揺られ浮かぶ僕はつたう汗を拭いのぼせた頭で考える。頭も体もすっかり弱くなってしまった。日焼けを気にするようになったし指は動かす度にパキパキ軋む。英語も読めなくなったしストレスが溜まると目に映るあらゆる文字が憎く思える。lineだって既読無視をしている訳じゃない。返事が全く思い浮かばないんだよ。自分の文字すら読めなくなっているから何を送っても何にもならない。思い付いたら返事をしようと思う。毎日を終わらせることに必死で、そこに丁寧さを求める余裕がなくなっていることに気付いた。丁寧さっていうのは本当に些細なことで、洗い物の後にシンクの水を拭くとかご飯を落ち着いて食べるとか爪を綺麗に切るとかそういう諸々を、すっかりどこかに置いてきてしまったようだ。忘れられた丁寧さの代わりはイライラに埋められた。あぁヴァレリー、こんな時に君がいてくれたら、久しぶりの会話に色を咲かせて置いてきてしまった心の余裕を探しにいけるのに……こんなことを考えるけれど僕の知り合いにヴァレリーなんて人はいない。本当に、すっかり弱ってしまった。

 

僕は弱者から抜け出せない。悟ったような言葉は簡単でいい。実際そうだ。川の流れに物思いに耽ってみてもいつもの世界から飛び出せるのはほんの一瞬だけで、家に帰ると何が大事なことなのかわからなくなる。今自分が抱えていることとかあの人がどんな風に過ごしているのかとか、見つめ直してみても終いにはいつもわからなくなってしまう。心はますます弱っていく。

 

弱っていく心の一方で現実は拍車をかけて目まぐるしく回る。暑さで霞む視界で捉えられるのはせいぜいその残像だけで、今の僕には何が起こっているのかなんてとてもじゃないがわからない。何が大事で何を求め何を求められるのか、あるべき姿は陽炎のように揺らいでそれこそ蜃気楼のように見える。僕は弱者から抜け出せない。日差しに刺されればぐったりと血を吐くし、少し押されるだけでいっぱいいっぱいの両腕と壊れた目元からいろいろなものが零れだす。流されやすい性格で、その癖運命を盲信していて、自分はいつか救われると思っている。自分の努力を肯定しない癖に人並みの努力を認めて欲しいと抱える自己矛盾に気付いていない。親近愛を捧ぐばっかりに恋を捨て自分には向いていないとペシミズムを振りかざせば、その影でまた自惚れた期待に身を寄せなんとかプライドを守っている。厭世を気取って花のように知らぬ間に散ってしまいたいと思う一方で、生きることに何かを見出そうと、咲いてみせようともがいている。話すことが得意ではない癖にどこかの誰かにこの溶ける胸の内を明かしたくて、でもそれを邪魔する心、自分は誰にも理解されない、されてたまるかと宣う心を疎ましく思っている。僕に住まう諸々の僕が、近頃一斉に弱っていく。心は1枚の薄い鉄板のようなもので、一度折れ曲がってしまうとその跡は消せない。なんとか叩き伸ばしてみても、指を滑らせればはっきりわかる。その瞬間にフラッシュバックするものは言うまでもない。その上自分の意思とは関係なく指が動くものだから質が悪い。つまるところは認めて欲しいのだと思う。霞む視界も、歪に伸ばしたこの心も、弱っていく僕とその動機も、結局は諸々を認めて欲しいのだと思う。時間をくれ、話を聞いてくれと今すぐ街を走り抜けたい。それが現実を変えることにならなくても、今はそこにしか望みはないと思っている。

 

笑顔を忘れるような日が続く。背後をじっとり付きまとわれる日が続く。誰かに必要とされたがっている日が続く。居場所を求める日が続く。ここに立っていていいんだよと、我々はそう思っているよと伝えてくれる、そんな人と出会えることを望んでいる。我儘だろうか。でも僕はその上でないと生きていけない。生きていると思えない。心に浮かぶその切望を瓶に詰めて、流れる水の音と共に誰かに届くことを希う。

夜枕に零す

6月が終わる。早い!変に肩をこわばらせながら職場に入場していた2ヶ月前と比べれば、自分でも明らかに力が抜けているのがわかる。与えられたタスクをその日の内に始末出来たりちょっとしたことでも褒めてもらえたりすると、働くって素晴らしい!と簡単に覚えてしまうところがなんとももどかしい。逆に自分なりに考えてとった行動が裏目に出ると死にたくなる。今日は電話した相手に詐欺と思われたらしく硬球をぶつけたアルミ板のごとく急速に凹んだ。まぁそんな感じで浮いたり沈んだりしながらも毎朝起きて通勤できるだけで自分にマルをあげたい。

 

難しいのは仕事だけではなくて、やっぱりどうしても自分の立ち位置や振る舞いが気になってしまう。最初は泥臭くスマートさをかなぐり捨てるくらいの姿勢でいいはずなのに、6月の僕は傲慢な本心を迎えて、いいよういいように思われようとしている。自分を縛っているのは誰なんだと言う話だ。僕を見る目か、それを見る僕の目か。だからいつしか本来の自分を忘れてしまう。正しさなんてないものをよりよくしようと突き詰めていくせいで、答えのないドツボにハマっている。こんなことをして何の意味があるのだろうとつい思ってしまう。意味なんて今はわからなくてもいいはずなのに。後になって全ては繋がっていくはずなのに。今までだってそうだったじゃないか。巡り合わせの最果てに6月の僕がいた。そして6月の僕はまた巡り合わせに繋がれていく。それでいいじゃないか。

 

意味を求めたくなるのが性分なら、あり合わせで構わないから手の届くところに用意しておきたいのだが。ケトルの中に、ペン立てに入れたデザインナイフの隣に、クローゼットにかかっているかもしれない。たとえしわくちゃだったとしても、アイロンをかけて丁寧に磨いていけば、見つけた場所なんて関係ない、少しは見られる様相になるだろう。それだけで夜が幸せになれるのに、まだそんな余裕はない。求めすぎる余りに、強欲な本心は得るものもなしに枕に頭を乗せることを良しとしない。だからそれを縛っているのは誰なんだという話だ。

 

今日の意味なんて考えるなと言い聞かせて、眠る許しを乞う。それはもっと大人になってから、朝焼けを見ながら靴を磨く余裕を持つまでは気にしなくていいことだ。少し押されたくらいでいっぱいいっぱいに抱えているものを零してしまう6月に、さらに意味を持たせるなんて酷が過ぎる。その優しさも不意に忘れてしまうことが、それに気付いてしまうことが、悔しくまた辛いのだけど。

でも壁紙が傷つくから

突然だが、僕の部屋は綺麗にまとまっていると思う。家具の配置とかの話じゃない。居場所として、過ごす場として、誰だってそうかもしれないが、自分の気に入ったものだけを置いて、棚には思い出を並べる。そうして出来た部屋に入る自分を特別に思える。それが最高。日頃から何もわからず外に放り出されていると、自分がわからなくなるのだ。今ここに立っている僕は本当の僕なのか。今流れている時間は現実か。身体と何も考えていない言葉だけが独り歩きして、意識だけが現実と乖離する。人の冷たさに触れ自分が特別でないと知る。今まで何度となくそんなことはあったけれど、どうにも慣れるものじゃないらしい。いつだって僕にとってその冷たさは、全くの意識の外から飛んでくるパチンコ玉みたいに、倒れるほどじゃないダメージを与え僕を浅く浅く穿っていく。けれども僕もそうバカじゃない。何度となくあった"そんなこと"を通して少しは賢くなっている。今日だってそう。自分は特別だと思っていたがそれに驕らず謙虚に振る舞った。結果的に僕は特別ではなかったのでダメージは少ない。物事は巡り合わせだ。自分から動かせる運命なんてそうそう訪れない。傷付きたくないなら無闇にあれこれ手を出さないことだ。謙虚に紳士的に、あくまで友好的に。改めて言葉にすると当たり前のことだが今日はその必要がある。

 

この部屋はいい。並べきれない思い出をコルクボードにひとつずつ貼り付けて僕は何百回目かわからない疼きに悩むけれど、それを見て笑われることも同情されることもない。自分の在り方なんてそれこそコルクボードの写真が増える度に問い続けてきた。でもそれはきっと僕だけの特別なものではなくてきっと誰しもが抱える普遍的な悩みなのではないか。ならそれに僕が加わる必要があるのか?血涙を流して自分を変えようとしても何も生まれはしない。余りにも非力で学もなく、うまく喋ることすらままならない。今この部屋で浮かぶ言葉は、言うなれば砂浜に書いているようなものだ。一歩外に出れば冷たい波に消されてしまう。砂浜に残すそれだけが僕が生み出せる唯一の痕跡なのに、時が来て一度波にのまれれば僕はそれを書いたことすら思い出せない。

 

この部屋はいい。綺麗にまとまっている。額に入ったポスター、写真、僕が作り上げてきたものであると同時に、僕を作りあげてきたものたちだ。この部屋はいい。だけど渇いている。この部屋には過去しかない。気持ちのいいものだけを並べて、見たくないものはAmazonダンボールにしまっている部屋だ。未来を求めて渇いている。そう気づいた途端に物足りなくなった。僕が書くべきなのは砂浜にではない。ありったけの思いで刻むべきなのだ、この部屋の壁に、その言葉を、いつでも思い出せるように。どうせ笑われも同情もされないのだから。

 

もっと揚々と自分を誇示出来る人間でありたかった。いや、かつてはきっとそうだったはずなのに、今が違うだけだ。なのに部屋に並べた思い出の中にその姿はない。今夜もこうして渇きに耐えながら、眉間に爪を立てる僕がいるだけだ。そうする自分を卑下しながら、渇きに疼きひとりほくそ笑んでいる。