Right to Light

陽ととなり

諸々の弱者達

予想外の日射しにさされすっかり日焼けしてしまった。川が流れる音を聞きながら、僕は水が好きだなと思った。"ちゃぽん"と跳ねる音、"ぱしゅぁあ"と流れる音。プールに行って泳ぎたい日だった。雨が上がったと思えば頭の上にはもうすっかり夏がいて、川に揺られ浮かぶ僕はつたう汗を拭いのぼせた頭で考える。頭も体もすっかり弱くなってしまった。日焼けを気にするようになったし指は動かす度にパキパキ軋む。英語も読めなくなったしストレスが溜まると目に映るあらゆる文字が憎く思える。lineだって既読無視をしている訳じゃない。返事が全く思い浮かばないんだよ。自分の文字すら読めなくなっているから何を送っても何にもならない。思い付いたら返事をしようと思う。毎日を終わらせることに必死で、そこに丁寧さを求める余裕がなくなっていることに気付いた。丁寧さっていうのは本当に些細なことで、洗い物の後にシンクの水を拭くとかご飯を落ち着いて食べるとか爪を綺麗に切るとかそういう諸々を、すっかりどこかに置いてきてしまったようだ。忘れられた丁寧さの代わりはイライラに埋められた。あぁヴァレリー、こんな時に君がいてくれたら、久しぶりの会話に色を咲かせて置いてきてしまった心の余裕を探しにいけるのに……こんなことを考えるけれど僕の知り合いにヴァレリーなんて人はいない。本当に、すっかり弱ってしまった。

 

僕は弱者から抜け出せない。悟ったような言葉は簡単でいい。実際そうだ。川の流れに物思いに耽ってみてもいつもの世界から飛び出せるのはほんの一瞬だけで、家に帰ると何が大事なことなのかわからなくなる。今自分が抱えていることとかあの人がどんな風に過ごしているのかとか、見つめ直してみても終いにはいつもわからなくなってしまう。心はますます弱っていく。

 

弱っていく心の一方で現実は拍車をかけて目まぐるしく回る。暑さで霞む視界で捉えられるのはせいぜいその残像だけで、今の僕には何が起こっているのかなんてとてもじゃないがわからない。何が大事で何を求め何を求められるのか、あるべき姿は陽炎のように揺らいでそれこそ蜃気楼のように見える。僕は弱者から抜け出せない。日差しに刺されればぐったりと血を吐くし、少し押されるだけでいっぱいいっぱいの両腕と壊れた目元からいろいろなものが零れだす。流されやすい性格で、その癖運命を盲信していて、自分はいつか救われると思っている。自分の努力を肯定しない癖に人並みの努力を認めて欲しいと抱える自己矛盾に気付いていない。親近愛を捧ぐばっかりに恋を捨て自分には向いていないとペシミズムを振りかざせば、その影でまた自惚れた期待に身を寄せなんとかプライドを守っている。厭世を気取って花のように知らぬ間に散ってしまいたいと思う一方で、生きることに何かを見出そうと、咲いてみせようともがいている。話すことが得意ではない癖にどこかの誰かにこの溶ける胸の内を明かしたくて、でもそれを邪魔する心、自分は誰にも理解されない、されてたまるかと宣う心を疎ましく思っている。僕に住まう諸々の僕が、近頃一斉に弱っていく。心は1枚の薄い鉄板のようなもので、一度折れ曲がってしまうとその跡は消せない。なんとか叩き伸ばしてみても、指を滑らせればはっきりわかる。その瞬間にフラッシュバックするものは言うまでもない。その上自分の意思とは関係なく指が動くものだから質が悪い。つまるところは認めて欲しいのだと思う。霞む視界も、歪に伸ばしたこの心も、弱っていく僕とその動機も、結局は諸々を認めて欲しいのだと思う。時間をくれ、話を聞いてくれと今すぐ街を走り抜けたい。それが現実を変えることにならなくても、今はそこにしか望みはないと思っている。

 

笑顔を忘れるような日が続く。背後をじっとり付きまとわれる日が続く。誰かに必要とされたがっている日が続く。居場所を求める日が続く。ここに立っていていいんだよと、我々はそう思っているよと伝えてくれる、そんな人と出会えることを望んでいる。我儘だろうか。でも僕はその上でないと生きていけない。生きていると思えない。心に浮かぶその切望を瓶に詰めて、流れる水の音と共に誰かに届くことを希う。

夜枕に零す

6月が終わる。早い!変に肩をこわばらせながら職場に入場していた2ヶ月前と比べれば、自分でも明らかに力が抜けているのがわかる。与えられたタスクをその日の内に始末出来たりちょっとしたことでも褒めてもらえたりすると、働くって素晴らしい!と簡単に覚えてしまうところがなんとももどかしい。逆に自分なりに考えてとった行動が裏目に出ると死にたくなる。今日は電話した相手に詐欺と思われたらしく硬球をぶつけたアルミ板のごとく急速に凹んだ。まぁそんな感じで浮いたり沈んだりしながらも毎朝起きて通勤できるだけで自分にマルをあげたい。

 

難しいのは仕事だけではなくて、やっぱりどうしても自分の立ち位置や振る舞いが気になってしまう。最初は泥臭くスマートさをかなぐり捨てるくらいの姿勢でいいはずなのに、6月の僕は傲慢な本心を迎えて、いいよういいように思われようとしている。自分を縛っているのは誰なんだと言う話だ。僕を見る目か、それを見る僕の目か。だからいつしか本来の自分を忘れてしまう。正しさなんてないものをよりよくしようと突き詰めていくせいで、答えのないドツボにハマっている。こんなことをして何の意味があるのだろうとつい思ってしまう。意味なんて今はわからなくてもいいはずなのに。後になって全ては繋がっていくはずなのに。今までだってそうだったじゃないか。巡り合わせの最果てに6月の僕がいた。そして6月の僕はまた巡り合わせに繋がれていく。それでいいじゃないか。

 

意味を求めたくなるのが性分なら、あり合わせで構わないから手の届くところに用意しておきたいのだが。ケトルの中に、ペン立てに入れたデザインナイフの隣に、クローゼットにかかっているかもしれない。たとえしわくちゃだったとしても、アイロンをかけて丁寧に磨いていけば、見つけた場所なんて関係ない、少しは見られる様相になるだろう。それだけで夜が幸せになれるのに、まだそんな余裕はない。求めすぎる余りに、強欲な本心は得るものもなしに枕に頭を乗せることを良しとしない。だからそれを縛っているのは誰なんだという話だ。

 

今日の意味なんて考えるなと言い聞かせて、眠る許しを乞う。それはもっと大人になってから、朝焼けを見ながら靴を磨く余裕を持つまでは気にしなくていいことだ。少し押されたくらいでいっぱいいっぱいに抱えているものを零してしまう6月に、さらに意味を持たせるなんて酷が過ぎる。その優しさも不意に忘れてしまうことが、それに気付いてしまうことが、悔しくまた辛いのだけど。

でも壁紙が傷つくから

突然だが、僕の部屋は綺麗にまとまっていると思う。家具の配置とかの話じゃない。居場所として、過ごす場として、誰だってそうかもしれないが、自分の気に入ったものだけを置いて、棚には思い出を並べる。そうして出来た部屋に入る自分を特別に思える。それが最高。日頃から何もわからず外に放り出されていると、自分がわからなくなるのだ。今ここに立っている僕は本当の僕なのか。今流れている時間は現実か。身体と何も考えていない言葉だけが独り歩きして、意識だけが現実と乖離する。人の冷たさに触れ自分が特別でないと知る。今まで何度となくそんなことはあったけれど、どうにも慣れるものじゃないらしい。いつだって僕にとってその冷たさは、全くの意識の外から飛んでくるパチンコ玉みたいに、倒れるほどじゃないダメージを与え僕を浅く浅く穿っていく。けれども僕もそうバカじゃない。何度となくあった"そんなこと"を通して少しは賢くなっている。今日だってそう。自分は特別だと思っていたがそれに驕らず謙虚に振る舞った。結果的に僕は特別ではなかったのでダメージは少ない。物事は巡り合わせだ。自分から動かせる運命なんてそうそう訪れない。傷付きたくないなら無闇にあれこれ手を出さないことだ。謙虚に紳士的に、あくまで友好的に。改めて言葉にすると当たり前のことだが今日はその必要がある。

 

この部屋はいい。並べきれない思い出をコルクボードにひとつずつ貼り付けて僕は何百回目かわからない疼きに悩むけれど、それを見て笑われることも同情されることもない。自分の在り方なんてそれこそコルクボードの写真が増える度に問い続けてきた。でもそれはきっと僕だけの特別なものではなくてきっと誰しもが抱える普遍的な悩みなのではないか。ならそれに僕が加わる必要があるのか?血涙を流して自分を変えようとしても何も生まれはしない。余りにも非力で学もなく、うまく喋ることすらままならない。今この部屋で浮かぶ言葉は、言うなれば砂浜に書いているようなものだ。一歩外に出れば冷たい波に消されてしまう。砂浜に残すそれだけが僕が生み出せる唯一の痕跡なのに、時が来て一度波にのまれれば僕はそれを書いたことすら思い出せない。

 

この部屋はいい。綺麗にまとまっている。額に入ったポスター、写真、僕が作り上げてきたものであると同時に、僕を作りあげてきたものたちだ。この部屋はいい。だけど渇いている。この部屋には過去しかない。気持ちのいいものだけを並べて、見たくないものはAmazonダンボールにしまっている部屋だ。未来を求めて渇いている。そう気づいた途端に物足りなくなった。僕が書くべきなのは砂浜にではない。ありったけの思いで刻むべきなのだ、この部屋の壁に、その言葉を、いつでも思い出せるように。どうせ笑われも同情もされないのだから。

 

もっと揚々と自分を誇示出来る人間でありたかった。いや、かつてはきっとそうだったはずなのに、今が違うだけだ。なのに部屋に並べた思い出の中にその姿はない。今夜もこうして渇きに耐えながら、眉間に爪を立てる僕がいるだけだ。そうする自分を卑下しながら、渇きに疼きひとりほくそ笑んでいる。

what I really really want

もうすぐ5月も終わる。働きはじめてなんとなくぼんやり毎日を過ごしていたら、気づけば1ヶ月経っている。それが長いのか短いのか僕自身よくわからない。以前と変わらず、労働は僕から1日の半分を奪っていくし、毎日新しいことの繰り返しで出勤してついていくだけで精一杯なのが現状だ。たまに「それ僕聞いてましたっけ?」みたいなことを言われたり、「イロハのイも理解していない僕にいったい何を求めているんだこの人は」と思ったりすることもある。だけれど、まぁ社会とはそういうものでみんながみんな個人を鑑みることなんてしないのだろうということで、後味の悪さを感じながらもなんとか噛み砕いている。人のことを気にする余裕なんてないのだ。今はただ「行けばお金がもらえる」の一心で、たとえそれで何か思われようとも、姿勢として僕のその一心が妥協という拠り所になっている。何言ってるかわからなくなってきた。とにかく毎日この気持ちと闘っている先輩後輩同級生、社会で働くあらゆる人達を尊敬する。正直言えば、刺激はあるが寂しい毎日だ。僕は今まで僕しかしたことがないから、こういう大海に放り出されて孤独に溺れる時、他の人達がそこからどう泳ぎ始めるのかがわからない。前から言っているように、孤独との付き合い方を見直さなくてはいけないと最近つくづく思っている。

 

というのもあって、働きはじめてから、「寂しくなった時は人に会う」ということを最近覚えた。かつて僕の居場所があった場へ、僕はベトナム珈琲を求めに入り浸るのだ。へばった脳にコンデンスミルクが染み渡る。それだけではない。心にできた寂しさの穴を埋めるためでもある。10代の夢を思い出せる場へ、半ば導かれるように足を運ぶのだ。過去に執着するのは今に不満がある証拠だと考えていたが、それはどうやら一面的な見方で、今を生きるために過去に執着する必要があるという考えを持つようになってきた。執着というと言葉が悪いか。恥ずかしげもなく言えば、そこで元気を貰っているのだ。今日を頑張ろうという元気を、明日も頑張ろうと思える元気を、ベトナム珈琲と一緒に頂いている。親愛なるスタッフ諸兄におかれましては、あまりにも頻繁に通う僕を見て「こいつ大丈夫なんか」と思われるかもしれない。ここではっきり言う。「僕は大丈夫。僕は大丈夫ではない」。本来なら「全然だいじょーぶ!心配ないぜ」と言ってやると様になるだろうが、生憎人のことは考えないようにしているのでそこは許してほしい。ていうか全然大丈夫じゃない。仕事がキツイとかそういうことではなく、君達に会えないのが寂しくて退屈で仕方ない。だから大丈夫じゃない!それにもし「大丈夫になってしまう」と、君達に会いにいく理由が無くなりそうで嫌なのだ。だからしばらくは通い詰める僕を暖かく受け入れてください。お願いします。(我ながら愛に溢れていると思う。どうぞ慕ってくれて構わない。)

 

「寂しい時は人に会う」、僕は新しく学んだのだ。覚えたてのことは実践したくてたまらない。その楽しさを、愉快さを、懐かしさを、すべてを明日の糧にする。ノスタルジーと人生の厳しさの狭間で揺れながら、今日もなんとか働くことができた。明日もきっと大丈夫だ。寂しさだって悪いものじゃない。この寂しさが無ければ、僕はきっと楽しみを持って夜を迎えられていないだろうから。

私の大好きなこの情熱を同じように愛してくれる人へ。

それは僕に縁遠いものであったはず。それでも記憶を遡るとこんな僕にも仄かに色が付いていた青春時代があり、今思えばあの時生きていた僕は本当に僕だったのかと思う程煌びやかな毎日だった。円周率を聞かされ続ける眠く退屈な授業があっても、昼休みだけは違った。どんなに部活で走り回り泥まみれでヘトヘトになっても、帰り路だけは違った。お互いに色の違うジャージで、照れ臭く交わす言葉も、ぎこちない距離感も、冷やかされる声も、その左手の感触も、ひとつひとつすべてが生きるエネルギーになっていた。そのエネルギーで停電の村がひとつ救えるくらいの、宇宙からでも煌々と輝く光が僕達だった。夜眠るのが楽しみだった。慣れない手紙のやりとりも甘酸っぱい想い出で、ネットで手紙の折り方を調べたり、夢ですぐ会えるねなどとのたまってすぐさま羞恥心に溺れたりもした。生きる上で必要なことは、すべてそこにあった。そのために生きていると思っていた。初恋にピンクグレープフルーツを添えたような、鮮やかで酸っぱ過ぎる恋だった。

 

僕のピークはどうやらそこだったらしい。ブランクは経験に霞をかけて僕を育てていった。あの頃みたいなピンクグレープフルーツとは違う。思春期を越え自我に芽生えた自分に僕は何を思えばいいのか。恋に生きることは人の性のひとつとして、指を滑らせるだけで文字を綴れる現代に、助けられも苦しめられもする毎日を過ごしている。情緒が欲しい訳じゃない。でも淡白過ぎるのもロマンが欠ける。夜を越える度に、使う相手のいない言葉だけが溜まっていく。虚しい。

 

人を好きになるのは素晴らしいことだ。なんとか認めてもらおうと必死になって自らを磨く姿には、多少の痛々しさはあれど笑顔になれる活力がある。モノクロの映画に浮かぶ赤いドレスの彼女を追って、月に相談し太陽に励まされる恋をもう何年していないのだろう。

 

今まで抑えられない情熱に掻き立てられることがなかった訳ではない。その度に筆をとり逆上せた頭で熱くその想いに胸中を溶かし言葉を吐き出しても、決して、決してその手紙に宛名を入れることはしなかった。宛名を入れてしまうとこの愛すべき情熱が消えてしまう。自分が好きなのは一体誰なんだと、その一瞬が冷や水となり熱された鉄のように音を立てて僕の情熱は冷めていく。恋する自分が好き、じゃいけないのだ。はじまりの予感を求め奔走する一方で、ただ愚直に振る舞うことに怖さを覚える背反。傷付く勇気を持てない今はその板挟みに悩みつづけている。だからこうして僕は今日も夜と寂しさの肩を抱き、書き終えて送るはずの恋文を渡せないでいるのだ。

 

私の大好きなこの情熱を同じように愛してくれる人へ。

 

今週のお題「あの人へラブレター」

皐の香りと時計の針と

予定調和のセンチメンタルになってしまって、今日が終わってほしくない。春の日暮れの香りに誘われて浮き足立った気持ちで夜を駆ける。興奮して眠れない。寂しくて眠れない。やり残したことがまだあるからだ。どうしても今日を終わらせる訳にはいかないのだ。そのやり残したこととは何なのか。頭ではきっちり理解しているはずなのに、理性と気恥ずかしさが邪魔をして体から行動を奪っていく。気候が丁度いい。池の周りをぐるりと歩くのだけどそれだけだ。辺りからは皐の香りがする。どの季節でも日が暮れる時間が一番好きだ。空に融け込むような空気を纏うと、それだけで自分が特別な何かでいられるような気がする。少しでも油断するとすぐ自分が正しいと思い込んでしまう社会の渦の中で、この時間だけは、世界中の誰よりも僕は正しく特別になれる。だからこそいろいろ考えてしまうのだ。自分に正直になれる時間だからこそ、自分の情け無さや失望させてしまったこと、それからの接し方が正しかっただろうかとか実は僕は無神経に愚かで無自覚に傷付けてしまっているのではないだろうかとか、もっと励ましてあげるべきではなかったのか、それはエゴで本当はそんなこと望んでいないのでは?私に愛はあるけどあなたはどうだ?私にとってあなたは特別だけどあなたにとっての私はどうだ?一歩進むごとに話したいことが積もっていく。自分を何かの型にはめないと恥ずかしくて、顔を合わせれば言葉を忘れてしまう。性に合わず真面目に考える僕を笑い飛ばしてくれるならそれでいい。それでいいから、笑いながら楽しく話がしたい。それでもペシミズムが抜けきらなくて困る。だってどれだけ思い詰めて考えても僕にハッピーエンドが待っているとは思えない。せめてやさしくころして、エゴの塊と化した僕はこう呟くしかない。

 

個人に宛てた言葉をここに載せることはないはずなのに、宛先不明の自己満足ポエムを載せる気持ち悪さと直接伝える勇気を秤にかけるとちょうど釣り合うことを知っているくせにまたやってしまった。ならこれは顕れなのか。僕にはその勇気があるという顕れであってほしい。皐のように季節が来れば自ずと咲ける、そんな人間でいたかった。そう思う夜だった。今日は終わっていく。

纏ういろは

悲しいことに、どうやら僕は幸福に慣れていないらしい。気に病むことを吐き出したり鬱憤を晴らしたりするためならいくらでも言葉が出てくるのに、今の気持ちはどうにもうまく言い表せなくて、枕に頭を打ち付け落ち着かず用を足す用も無いのにトイレに立ち挙句考えることを放棄する。放棄したい、なのにそうはいかない。この気持ちを明日に息吹く風にしたい、その一心で慣れない感情に戸惑いながら本心に急かされ書いている。首は疼き指は思い通りに動かない。もはや禁断症状のそれだ。友情の過剰摂取、幸福のオーバードーズだ。難しい。

 

難しい。僕はもっと自分は素直な人間だと思っていた。口が悪かったり軽口が出たりするのも、別に悪意があったり気取っている訳じゃない、すこし自分に正直なだけ、そう思っていた。なのになんだこの体たらくは。いざ己の幸せを吐き出してみよとその己に言われれば、軽口は重力を思い出し意識は散漫注意は暴落しせっせと着飾った語彙は没落、脳内はスラム街と化した。吹きすさぶは新風どころではない。砂埃を捲き上る灰色を纏った風である。あまりの空白期間に喜ぶことを忘れてしまったらしい。哀しみの色は暗い色。暗く青く、足元に広がる重たい水の色。喜びの色はどんな色だったか。長いインターバルだとしても答えは今にある。今の色が喜びの色。幸せの色。自分は間違っていなかったんだという正しさの白、優しく頬を撫でる慕うべき亜麻色、暗い水に光をくれる友情の柑子色。あぁそうだった。今までだっていつだって、楽しい時はその中に飛び込みその時々の色を纏って自分になっていた。溺れる時だってあったけど、かといって暗い色を否定しない、日に日に移り変わる自分の色を楽しんでいた。それが僕の生き方だった。

 

新生活に期待はしていない。不安定な期待はいつだって予想の外で裏切られ心に雨を降らす。だから期待はしない。だって裏切られることもないから。理想を捨て絶望を遠ざける、理想など存在しないという覚悟が絶望を吹き飛ばしてくれる。その烈風こそが、意思を滾らせる赤光を纏った風だと感じる。いつだってはじまりは自分を信じる白だった。しかと踏みしめ赤い風の吹く方へ進めばいいのだ。暗く色を見失いそうな時は、今日を思い出すといい。一縷と言わず日輪のように、その柑子色であるべき心を照らしてくれるから。疲れ病み自分の色を忘れた時は、今日を思い出すといい。優しく焦がれる亜麻色の声が、何度でも染め直してくれるから。

 

自分が残照になれたかはわからない。だけどそれとは別に、僕もまた照らされていたのだ。それに気付けたことが嬉しくて嬉しくてたまらない。その色を纏って歩けることが、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。